■節子への挽歌2756:桜の季節
節子
ようやく春です。
桜が満開で、わが家からも下の道沿いの桜がよく見えます。
今年も、どうも花見に行く気分ではないのです。
春にはふさわしくない、少し暗い話ですが、どうも私から何かを「愛でる気持ち」が失せてしまったのかもしれません。
節子がいなくなってから、好奇心は相変わらず衰えていませんが、何かを愛でるとか味わうという気持ちが消えてしまった気がします。
もしかしたら、もともと私にはそうした審美感が弱かったのかもしれませんが、最近、特にそうなってしまった気がします。
言い換えれば「感動」がなくなったのです。
もちろん、いまもそれなりに「感動」や「感激」を体験することは少なくありません。
でもなぜかそれは、「人の気持ち」などへの反応がほとんどであって、「花鳥風月」への気持ちではないような気がします。
いささか理屈っぽく言うと、世界がとても冷めて見えるようになってしまったのです。
美しい桜の向こうに、花も葉っぱも落した枯木が見えてしまう。
花の下ではしゃぐ人たちの向こうに、寂しさや悲しさを感じてしまう。
そこに居る自分自身も、何か他人のように思えてしまう。
素直に生きたいと言いながらも、あんまり素直でない自分がいるのです。
困ったものですが、そこから抜け出られない。
依然、私を元気づけようとしたのでしょうが、お花見に誘ってくれた人がいます。
出かけて行って、結局は逆に落ち込んでしまいました。
華やかな桜の下で、どう対処したらいいのか、わからなかったのです。
しかし、それもこれもみんな、「思い込み」かもしれません。
あれからかなり時間がたちますし、お花見に行ったら、気分が変わるかもしれません。
さて、行ってみますか?
わが家から少し歩くだけで、桜が見られますし、湯島のオフィスに行くのに上野公園を通っていけば、桜は満喫できるのです。
節子は桜が好きでした。
とりわけ病気になってからは桜が見たいと、いろいろなところに付き合いました。
最後に見た桜は、近くのあけぼの公園の早咲きの桜でした。
昔は家族などで、あけぼの公園に毎年お花見に行っていました。
節子がいなくなってから、それもなくなりました。
今日も人出でにぎわっていることでしょう。
あけぼの公園も、久しく行っていません。
私の世界はかなり狭くなっていることに、いまさらながら気づきました。
桜の季節になると、世間とは反対に、私は少し暗くなってしまうのです。
困ったものですが。
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