■節子への挽歌2738:親身に話し合う関係
節子
気になると気になって仕方がないことがあります。
最近はいささか過剰に敏感になっているのかもしれません。
昨日、携帯に「会いたい」という電話がありました。
電車の中だったので、1時間後に電話してと伝えたのですが、そのあと、すぐにシンポジウムに参加してしまい、失念してしまっていました。
夜に、電話がなかったことに気づきました。
朝、起きてすぐに電話しましたが、電話もメールもつながりません。
その前に会った時に、少し不安な言葉をぽろっとつぶやいたのが気になっていたのです。
最近は、私自身が精神的に不安定なので、他者に過剰に同調しがちなのです。
こういう時には、誰にも相談できません。
つくづくと、他者に関わることの重さを感じます。
中途半端にかかわるのが一番悪いということは、私もわかっているのですが。
落ち着かない時間を過ごしていました。
なにも手につかないのです。
お昼頃、メールが届きました。
京都のお寺で参禅し、気持ちが落ち着いたとありました。
ホッとしました。
と同時に、私こそ参禅したほうがよさそうだと思いました。
彼も、あまり親身に話し合う友人や家族がいなのでしょうが、考えてみると、私も同じような状況です。
座禅によって、「親身に話し合う」ことのできる、もう一人の自分に会えるでしょう。
親身に話し合う関係というのは、なかなかそう簡単には構築できません。
夫婦というのは、まさに「親身に話し合う関係」であることに大きな価値があるのだと、痛感します。
節子がいたおかげで、あるいはいたために、私はこれまでまだ一度も座禅を組んだことがありません。
座禅で、節子に会えるかもしれません。
自宅でも座線を組むことはできそうです。
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