■節子への挽歌2735:世界が非連続なのか、私自身が非連続なのか
節子
再開最初の挽歌です。
この1週間に数冊の本を読みましたが、そのひとつが「ケアの始まる場所」という論考集でした。
その中に「死者のケア」という論考がありました。
そこにこんな記載がありました。
死者は「いない」というあり方,すなわち「不在」というあり方で存在し続けているのである。
私たちがその内で現に存在する世界とは,「生前の死者とかつて共にあった世界」であり,「今は亡き死者と共にある世界」なのである。
そうであればこそ,たとえ死者が不在となったとしても,その世界の側から(世界の内にある事物やその人の痕跡を通して)死者になったその人を偲ぶことが可能となる。
こんなややこしい表現などしなくてもいいではないかと思われるかもしれませんが、こういう言葉に奇妙に心が安堵するのです。
しかし、気になることもあります。
「生前の死者とかつて共にあった世界」と「今は亡き死者と共にある世界」とは連続しているのかどうか。
私にはどうも連続していないような気がします。
世界はその人の意識が創り出しているはずです。
ですから、自らの一部が喪失するような体験をしてしまった以上、世界は非連続になっても仕方がありません。
つまり、世界が非連続なのは、私自身が非連続な存在だということにもなります。
世界と自己とは、どちらが因でどちらが果かも明確ではありません。
この本は、そうしたことを考えさせられる様々な示唆に満ちている本でした。
明日からはまたきちんと挽歌を書くようにしようと思います。
新聞やテレビの報道番組も見ようと思います。
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