■節子への挽歌2754:愚鈍さと聡明さ
節子
私の場合、大切なことは、気づいた時にはすでに遅いのです。
聡明ではなく、愚鈍であるためでしょう。
それでも、まあ気づくだけ良しとするかと思うのですが、遅すぎた気づきであれば、気づかないほうがいいのかもしれません。
気づいて後悔することの辛さは、あんまり味わいたくない辛さですから。
最近、節子に関して、気づくことが多いのです。
なぜそんなことに気づかなかったのかということもあれば、たとえば食養の話を聴いていて、もっとそうしたことを知っていたら、と思うことも多いのです。
私は、あまりにも「生きること」に無知だったことを、最近、思い知らされています。
私は、過去の事にはあまり興味のない人間だと思っていましたが、どうもそうではなく、過去のことをくよくよ考えるタイプの人間なのかもしれないという「気づき」まであると、それこそ生きにくくなってしまうのです。
愚鈍さと聡明さ。
どちらが生きるには好都合でしょうか。
愚鈍であることの方がいいだろうと思っていましたが、どうも私は中途半端な愚鈍さしか持っていないようです。
最近生きにくさを感じますから。
夏目漱石の「草枕」の冒頭の有名な、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という言葉が、最近はとても心身に響きます。
愚鈍さは、やはり一人では生きにくい。
2人であれば、逆に生きやすくなる。
そんな気がします。
愚鈍な人は、伴侶を大切にしなければいけません。
一人になると、なぜか賢くなりたくなってくるようです。
しかし、聡明にはなれないのですが。
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