■節子への挽歌2744:インディアンたちは幸せだったに違いない
節子
昨日の映画を観て思ったことを、もう一度書きたいと思います。
しみじみと、深く思ったことです。
白人たちに滅ぼされていったアメリカのネイティブ(インディアン)たちと滅ぼす側の白人とは、どちらが幸せだったのか。
映画を観ていない人にはなかなか理解してもらえないと思いますが、この映画を観終わった時に感じたのは、インディアン側だったという確信です。
最近、かなり精神的にへこんでいて、気持ちが湿っぽくなっているためかもしれませんが、滅ぼす側よりも滅ぼされる側が幸せかもしれないと思えるのです。
そしてそれは、過去の話などでは全くなく、私の生き方につながる問題だと、時間がたつにつれて感じられるようになりました。
いや、インディアンたちが幸せだったのでなければいけないのです。
なぜなら、それが私の生き方に通じているような気がしたからです。
私が、あこがれている生き方は、どうも「インディアン・ライフ」のようです。
表現的には、まったく正反対のようにも見えますが、でも私があこがれているのは、こういう生き方なのだと、映画を観ていて感じました。
「ひ弱な」私には、インディアンのような見事な生き方はとてもできませんが、その生き方を目指すことはできるでしょう。
少なくとも、人や自然を信ずることくらいは、私にもできます。
しかし、改めて自省すれば、まだまだ信じ足りない自分に気づきます。
人を信ずればこそ、裏切られることはあっても、感動することもできる。
機械のように生きなくていいだけでも、白人よりもインディアンが豊かではないか。
間違いなく、滅ぼされたインディアンの方が豊かだったと思いたい。
しかし、歴史は豊かな生き方には加担しません。
なぜなら豊かさには動きが生まれにくいからです。
そして、いまの社会は、私にはとても豊かだとは思えません。
節子がいなくなってから、いろいろと考えることが多くなりました。
節子と話す時間がなくなったぶんだけ、自問自答が増えています。
応えてくれる相手がいないので、自分で考えなければいけない。
自問自答は、なかなか戻れないものです。
そう思うと、どんどんそんな気がしてくる。
だれも止めてはくれません。
だから娘からは「暴走している」と前にも注意されたのです。
娘たちには、私はいったいどう見えているのでしょうか。
もう一つ困っていることがあります。
思考は深まりますが、言動はむしろ飛散しがちなのです。
重荷を背負った心身を軽くするように、人に会うと、ついつい饒舌になり、言わずもがなのことを言ってしまう。
今日も、おふたりの人に会いましたが、勝手なことを話しすぎてしまい、いささかまた気が滅入っています。
まあこういう時は、何をやっても気が滅入る。
流れが反転するのを待たねばいけないのかもしれません。
しかし、節子がいなくなっていても、私は豊かなのかもしれません。
いや、そう思わなければやっていけないのかもしれません。
気が滅入っていると思考まで堂々巡りしだします。
今日はもう寝ましょう。
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