■節子への挽歌2763:時間は関係性の中にこそ存在する
節子
今日も冬のような寒い日です。
私の心情と同じく、いつになってもあったかくなりません。
困ったものです。
さて、友人の博士論文の議論に付き合っています。
こういう相談は楽しくていいです。
それなりに頭は使いますが。
論文のテーマの一つは、時間論です。
時間はいったい誰のものか。
その友人と話していると、いろいろと考えることが多いのですが、
節子との関係で時間を考えると、いろんなことに考えが広がります。
博士論文を書いている友人の発想の起点は「時間の私的所有」ということです。
時間が私的なものになったために、逆に人は時間からも疎外されだしたというのです。
自分のものになった途端に、奪われてしまったというわけです。
とても共感できます。
そもそも時間は、自分のものになどならないのですが、近代はそう擬制したのです。
誰かを愛すると、そのことがよくわかります。
誰かを喪うと、さらによくわかる。
時間は、関係性の中にこそ存在し、誰のものにもならないのです。
時間のことを考えれば考えるほど、そういう思いになってきます。
明後日もう一度、友人とそんな話をすることにしました。
節子も知っているように、私はこういう話がとても好きなのです。
節子は、わけのわからない、こういう話によく付き合ってくれました。
あの頃がとても懐かしいです。
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