■節子への挽歌2766:自分への気づき
節子
今年もまた敦賀の義姉から大きなタケノコが届きました。
私は、タケノコが大好きなのですが、私が住んでいる界隈のタケノコは、まだ放射性汚染の関係で食べられません。
だから西日本からのタケノコは、とてもうれしいのです。
最近は毎日、畑で笹と格闘していますが、その親分のようなタケノコを食べてしまうのもまた、気分のいいものです。
節子がいなくなってから、私の食生活はたぶん大きく変わりました。
娘の嗜好と私の嗜好は、大きく違うからです。
もしかしたら、節子も私とは違っていたのかもしれませんが、私にかなり合わせてくれていました。
私は基本的には野菜と海藻好みであり、それも味付けは醤油中心なのです。
タケノコは、たぶん私だけが好きなのです。
セリも大好きですが、娘たちは食べません。
その一方で、娘が好きな西洋野菜は苦手なのです。
娘に言わせると私は好き嫌いが多いので、食事作りが面倒だと言います。
それなのに、私自身、好き嫌いがないと思っているのは、節子がたぶん私に合わせてくれていたからでしょう。
いろんな意味で、節子のおかげで、快適だったわけですが、それは自分のことに気づかされていなかったということでもあります。
節子がいなくなってから、そのことがよくわかります。
もちろんだからと言って、節子を恨んだりはしていません。
感謝してはいますが。
伴侶の存在は、自分の欠点を気づかせてもくれますが、見えなくしてしまうこともあります。
それは、また人とは「個人」単独ではそんざいしていないものだということも教えてくれます。
節子がいなくなってからもなお、節子と一緒だったころと同じように、節子からいろんなことを気づかされています。
今日も寒い1日でした。
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