■城里町のみなさんから学ぶこと〔9〕
昨日の朝、畑に行って土を耕してきました。
1時間ほどですが、「肉体労働」をしてきました。
業務命令ではないのですが、宇根豊さんの「農本主義が未来を耕す」という本を読んで、畑仕事もまた「お天道様の命令」だという気持ちで、あんまり行きたくなかったのですが、行ってきました。
休み休みの肉体労働ですが、何やら気分がすっきりしました。
もしかしたら、城里町の役場のデスクワーカーたちには、久しぶりに気持ちのいい汗がかけたのかもしれません。
まあ。それは勝手な推測ですが、今日は、昨日書き残した〔B〕の話です。
「労働者の側の視点」はとても重要です。
しかし、それは労働者でなければ不可能です。
その前に、しかし行政職員に対して、あなたは「労働者ですか?」と質問したら、みんなどう思うでしょうか。
私は、これまで自分が「労働者」であると自覚したことは一度もありません。
何回も書いているように、私は人間であって、労働者ではありません。
労働組合員であったことはありますが、労働者などという概念で人を見る発想が私には理解できません。
柴又の寅さんは、隣の工場で働いている人たちを「労働者」と呼びます。
とても鋭いメッセージが、そこには込められています。
福祉に関わる活動をしていると、よく「相手に寄り添って」とか、「相手の立場になって」という人がいます。
私は、寄り添えるかもしれないが、相手の立場に立ちなどという傲慢さを捨てるべきだと、いつも思います。
そういう人は、私の体験では、ほぼ確実に「目線が上」のような気がします。
かわいそうな人と位置付けているのです。
そこから変えなければ、ケアの精神など持てようがありません。
ケアは、あわれむことでも、バカにすることでもない。
そう思います。
話がだんだんそれてきていますね。
すみません。
労働者は、しかし、いないわけではありません。
組織に属していると、組織の雰囲気や暗黙のルールに基づいて、「自発的隷従」を強いられることは少なくないでしょう。
私の知っている会社が、あるボランティア活動をやっているうちに、その活動を会社の正規の事業活動にしてしまいました。
それまでは使用があれば断れたのですが、会社の字となれば、そう簡単には断れなくなってしまった。
さてどうするか。
そんな話も最近身近にあります。
なかなか本題に行きませんが、実は引っ越し作業に限らずに、しようがある時には、あるいは納得できない仕事には、ノーといえるべきなのです。
長くなったので、とりあえずまとめてしまいますが、実はそうした問題が、引っ越し作業が業務になったことによって、意識化されるのです。
休日に業務命令された作業が。引っ越し作業でなかったらいいのでしょうか。
つまり、〔B〕の問いかけには、それ自体に「差別」や「隷従」の要素が感じられます。
いささか書きすぎてしまいました。
書いた割には内容がないですね。
すみません。
でも、思いが伝わるといいのですが。
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