■節子への挽歌2768:新しい経済を生きる
節子
昨日は長い夢を見ました。
残念ながら節子とは無縁の夢でした。
私が、新しい経済の枠組みについて話をしている夢でした。
話し手であるくせに、同時に私は聴き手でもありました。
聴き手の中に節子がいたかどうかはわかりませんが、気配は感じました。
おかしな話ですが、その中でいくつかの新しい気づきがありました。
起きてすぐにメモすべきでしたが、3時間以上たったら、もう思い出せません。
何かとても大きな気づきがあったような気がしますが、大した話ではないのかもしれません。
まあこれは時々あることなのです。
残念ですが、しかたありません。
それにしても、夢とは不思議なものです。
新しい経済の捉え方は、私の生き方につながっています。
その模索から始まった、私の関心事ですので。
できれば、私の第4期(第4四半世紀)は、その生き方を夫婦で実現したかったのですが、残念ながらそうはならずに、私は今も、長い第3期の延長の生き方を続けています。
しかも、ここにきて、お金に囚われてしまった面もあって、いささか不本意な生き方になっています。
これも節子がいなくなったためと言いたいのですが、そういったところで何も変わりません。
しかし、伴侶を喪うと、人は時に道を踏み外します。
困ったものですが。
それでも、新しい経済に関しては、かなり実態を感じられるようになってきました。
生き方を変えて、もう26年なのですから、そうでなければいけませんが、なんとか26年も生き続けてきたことは、それなりに確信になってきました。
それでも、その生き方を誰かに勧めたり、実践的に指南することなどできません。
新しい生き方は、自らを素直に生きる人が増えることによってしか実現しないでしょうし、そうした生き方は「スタイル」ではなく「価値観」としか言えないからです。
現実の社会では体系化できないが故に、夢の世界で、話をしていたわけです。
しかし、その夢の中の講義も、途中で目が覚めてしまいました。
最後の結論には達しなかったわけです。
もう少し、いまの生き方を続けるしかありません。
あるいは、夢の続きを見せてもらうしかありません。
今度は目覚めたらすぐにメモをしようと思います。
今日は天気予報と違って、とてもいい天気です。
今日は自宅にいます。
午後から天気は荒れるとも言われていますが、いまのところ、その気配はありません。
節子の友人たちが、わが家に来るので、降らなければいいのですが。
| 固定リンク
「妻への挽歌14」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌2800:不安や怒りのはけ口のような存在(2015.05.23)
- ■節子への挽歌2799:支えてくれる人が無性にほしくなりました(2015.05.22)
- ■節子への挽歌2798:来客の合間(2015.05.21)
- ■節子への挽歌2797:ひがみ根性を捨てなければいけません(2015.05.20)
コメント