■節子への挽歌2771:疲れる夢をよく見るようになりました
節子
明恵の夢の話を書いたせいか、最近、夢ばかり見ています。
それもかなり見ていて「疲れる夢」なのです。
最近は、あまり熟睡することがなく、夜中によく目が覚めますが、必ずと言っていいほど、夢で目覚めます。
目覚めるとトイレに行きたくなり、行ってしまうのですが、ベッドに戻ってくるともうその夢が思い出せません。
ただ、なにか宿題をもらったような夢だったことだけは思い出せます。
それを思い出そうとしても思い出せず、眠ってしまうと、また違う夢を見ます。
白洲さんの「明恵上人」は講談社学芸文庫版で読んだのですが、河合隼雄さんが解説を書いていました。
それが面白くて、その河合さんの書いた「明恵 夢を生きる」を図書館から借りてきて、読み出しました。
夢の事がたくさん書かれています。
私も昔は、夢の中で夢を見たり(記憶では3層の夢を見たことがあります)、夢をコントロールしたりできたのですが、最近はそういうことが出来なくなりました。
実際の生活そのものが、「夢」のようになってしまったからかもしれません。
ただただ受け身で「疲れる夢」を見るようになってきています。
疲れるというのは、講義を聞いたり、講義したり、あるいは議論したり、宿題を背負わされたり、そんな内容なのです。
しかし、そうしたことの肝心の内容が目覚めると思い出せない。
なにかやらないといけないという気持ちだけが残ってしまう。
だから疲れてしまうのです。
夢のことを話し合う相手がいないので、思い出せなくなってしまったのかもしれません。
なんとなく思い出せることもあります。
一昨日は目覚めた時に、もしかしたらこれは正夢かもしれないので、彼から電話が来るかもしれないと思ったことを覚えています。
しかし、お恥ずかしいことに、朝食をすませたら、もう思い出せないのです。
「彼」というのがだれだったかも思い出せません。
昨日一日電話を待ちましたが、心当たる人からの電話はありませんでした。
朝にそう思ったことが、夢だったのかもしれません。
そうだとすれば、ますます私の生は、夢に近づいているようです。
今日は、読み出した「明恵 夢を生きる」を読もうと思います。
天気も悪いので、読書日和です。
最近、よく本を読むようになりました。
読書もまた、夢と同じようなものかもしれません。
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