■節子への挽歌2762:「命ってのは個人のものじゃない」
節子
冬に逆戻りの寒い日でした。
昨日、集中して本を読んだせいか、何やら頭がつかれて、無駄な1日を過ごしてしまいました。
こういう本の読み方はよくありません。
晴耕雨読とは程遠い読み方です。
節子がいなくなってから、どうも生活のリズムが偏りがちです。
ところで、昨日よんだ本の中に、浄土真宗の研究者の信楽峻麿さんのインタビューが載っていました。
そこで、信楽さんが「命ってのは個人のものじゃない。家族のものであったりね、身内のものであったり、あるいは友達のものであったりしてね」と話していました。
仏教における生命理解の特徴は「生命通底」。
一切の生きとし生けるものに命が共存・共通している、いやそれ以上に、草木国土悉皆成仏というように、土や石、鉱物にまでも命が宿っているというのが仏教の生命観です。
畑をやっていてよくわかるのですが、土は間違いなく生きています。
もしそうなら、意志もまた生きていてもおかしくありません。
私には、仏教の生命観はすんなりと受け入れられます。
命はあまねく存在する。
そして、みんなつながっている。
こう考えると、命の意味が広がります。
そして、「命ってのは個人のものじゃない」ということが、腑に落ちるのです。
その一方で、命がつながっているのであれば、個人の死はどういう意味を持っているのだろうかということになります。
あまり意味はないのではないか。
とここまで書いてきたのですが、私の部屋には暖房器具もないため寒くて仕方がありません。
今日は都心では雪まで降ったようです。
この寒さで風邪をひくと悪いので、この続きは明日にします。
今日は早々とお風呂に入って、メールをやっていたら、すっかり身体が凍えてしまいました。
風邪をひいたら大変です。
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