■節子への挽歌2803:解けない命題
節子
久しぶりに、ある読者からコメントをもらいました。
pattiさんです。
pattiさんが最初にこの挽歌にコメントしてくださったのは、もう4年近く前だったと思います。
私と同じように、かけがえのない伴侶を喪った後、この挽歌に出会ってくださったのです。
時々、コメントを下さっていましたが、2年半ほど前からとまっていました。
それが久しぶりにコメント送ってきてくれました。
とてもうれしいことです。
というのは、最後のコメントがいささか気になる内容だったからです。
その一部を引用させてもらいます。
私も最近はずっと挫けていました。 彼は私が謝ることは何もないと言ってくれていました。 それでもなお悔いと孤独に喘ぐ日々が続いていたのです。 気がつくと謝る言葉ばかり。 そんな言葉は彼は望んでいませんね。 佐藤様のコメントにはっとさせられました。 ありがとうございます。
このコメントを最後に2年半、コメントが途絶えていました。
だからうれしいコメントだったのです。
この挽歌に出合って、コメントくださる人がいます。
なかには直接に訪ねてきてくださる人もいました。
愛する人を喪うと、みんな混乱してしまうのです。
ですから、こんな自分のための繰り言の文章にさえ、反応してしまうのです。
でも、次第に落ち着いてくれば、他者の挽歌よりも自分の挽歌の世界を生きられるようになります。
それは、とてもいいことです。
ですから、いろんな人が通り過ぎていくことは、私にはうれしいことでもあるのです。
しかし、どこかに少しだけの寂しさが残ることもあります。
一瞬とはいえ、悲しさや寂しさを共有したという思いがあるからです。
特に、pattiさんのように、ご自分の真情を吐露してくださったかたの場合はどこかに残ってしまいます。
ましてや気になるコメントで途絶えてしまうと、どこか気になってしまうのです。
2年半ぶりの、pattiさんのコメントはうれしい内容でした。
コメント欄を読んでもらえればいいのですが、一部を引用させてもらいます。
「かけがえのない伴侶」を喪ってからどのように生きていったらいいのか、という命題が解けないまま続いています。 それでも時間は解決してはくれないけれど、「されど時間」ということも実感しています。 この世に自分は生きているという違和感、浮遊感は変わらないけれど社会や世界を知っていくことが止まらない日々を重ねるようになりました。
解けない命題。
されど時間。
とても共感できる思いです。
そして、
「社会や世界を知っていくことが止まらない日々を重ねるようになりました」。
前に向かいだしたpattiさんに、私も少し元気をもらえたような気がします。
pattiさんに感謝しなければいけません。
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