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2015/05/16

■節子への挽歌2793:「異邦人」のようなさびしさ

節子
どう考えてもこの世は不条理だ、などとムルソーのようなことは言えませんが、最近、どうも自分が「異邦人」のような気がすることがあります。
社会が悪いのではなく、もちろん私が悪いのでもなく、ただ世界が少しだけずれているだけなのだろうとは思いますが、そのずれは、私に限らず、だれにもあることでしょう。
しかし、それにしても、あまりに違いすぎる。
最近、ようやくそれに気づきだしました。
節子がいたころは、そんなことなど考えたこともありませんでしたが、世界をシェアできる人がいなくなると、そういうことが見えてきます。
そして追いやられてしまう。
どうせだれもが分かってくれないのだからと、暴発することもあるでしょう。
ムルソーを暴発させたのは太陽の陽射しではなく、その違いの格差の持つエネルギーかもしれません。
もしそうであれば、私も十分に暴発のパワーはあるかもしれません。
ただ幸か不幸か、それを現実化するほどの体力がありません。
だから、注意しないと、そのエネルギーが自らに向かって、世捨て人になる恐れもあります。
世捨て人は、私の価値観では、死者と同じですので、避けなければいけません。

私は、もともと言語能力がかなり弱いのですが、最近、思うのは、これまでの70年、いろいろと話してきたけれど、ほとんど誰にも私の話は伝わっていなかったのではないかという気もします。
そう思うことで、自分を納得させたり、慰めたりすることができるから、そう思うのですが、その反面、あまりの違いに生きる時代を間違えたのだという寂しさも感じます。

節子も当初、私の言葉はほとんど理解不能だったようです。
あなたの話は、どこまでが「本当」で、どこまでが「うそ」かわからないとよく言われたものです。
言葉には、本当もうそもありません。
本当やうそがあるとしたら、それがあるのは言葉の奥にある世界です。
ですから、その問題の立て方自体が、間違っていると私は思いますが、一緒に暮らしているうちに、次第に多くのことが「うそ」ではないことを実感してくれたようです。
さすがに、昔、大宰府に住んでいたとか言う話は信じませんでしたが。
でも、否定もしませんでした。

横道に入りますが、私が昔、大宰府に住んでいたことを知ったのは、20年ほど前に大宰府の観世音寺を訪ねた時です。
そこを歩いていて、あっ! ここには前に住んでいたことがある、と突然に感じたのです。
もちろん前世の話です。飛鳥の頃でしょうか。
現在の科学では証明しようがないので、そう思ったら信ずるしかありません。
それが、私にとっての「素直に生きる」ということです。
時間は少しかかりましたが、節子とは世界をシェアできていた気がします。

私は、思いがほぼすべて身体に出るタイプなので、隠せないならすべてを開いていけばいいという生き方になったのですが、だからと言って、それが誰にでも伝わるとは限りません。
むしろ、言葉や知識が、それを妨げてくれるのです。
ほとんどの人は、私の言葉を信じません、いや理解しようともしない。
それぞれがみんな自分の言語体系、知識体系で受け止めるからです。
これは、節子から教えてもらったことです。
同じ言葉も、話す人によって受け取られかたが違うことを。
私の場合、そのおかげで私の真意は冗談と受け取られて、これまでむしろ生きやすい人生を送ってきたのかもしれません。

しかし、それこそが、私自身、中途半端な生き方になってしまった理由かもしれません。
そして、いま無性に孤独を感じている。
やはり、この世は、不条理ではなく、条理に従っているようです。
もし不条理があるとすれば、世界をシェアしたパートナーがいなくなり、世界だけが残ったことかもしれません。

何やら長い挽歌になってしまいました。
今日もまた寝不足です。

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