■節子への挽歌2799:支えてくれる人が無性にほしくなりました
節子
夢で目が覚めました。
節子の夢です。
昨夜は節子からの電話の夢でしたが、今朝は節子が隣で寝ていて、節子の寝顔に見とれていたら、夢の中で、もうひとりの節子がやってきて、起こされました。
節子の夢を見ると、いつもは快さが残るのですが、この2日は寂しさだけが残りました。
最近の夢は、その気になれば、簡単に解き明かせるほどの「簡単なメッセージ」を持っているものが多いのです。
その集積が、私をさびしくさせているのでしょうか。
最近、あまりに様々なことが起きました。
いつもはトラブルさえもある意味で「楽しめる」のですが、最近は逆にトラブルから逃げたくなります。
生命力が弱まっているのでしょう。
それが、夢にも出ているのかもしれません。
最近、だれかに支えてほしいと思うことがあるようになりました。
この数日、無性にそう思います。
もしかしたら、生まれてはじめの気持ちかもしれません。
いつも私は、自分でも気づくことのない誰かに支えられてきたのでしょう。
だから、誰かに支えてほしいという気持ちはあまり記憶にはありません。
いまも多くの人たちに支えられている。
頭ではそう思うのですが、心身はそうは感じられなくなってきています。
孤独感とでもいうのでしょうか。
いや、そんな一言で表現できるようなものではありません。
もっと深くて、悲しいものです。
どうしてこんな気持ちになってしまったのか。
なぜこんなにさびしいのか。
人は一人で生きているという言葉ほど、理解できない言葉はありませんでした。
いつも、良い友だちに囲まれて、だれかのことを心配し、誰かに何かできることはないかと、考えているのが私の生き方でした。
いまも、気になっている友は少なくありません。
しかし、いまはそうした世界とは別の世界に引き込まれようとしているのかもしれません。
とりわけだれもいない時に、たとえようのない、恐ろしいほどのさびしさが襲ってくる。
それは多くの場合、ほんの一瞬なのですが、誰かに思いきり抱きしめてもらいたいと思うほどです。
象徴的ではなく、物理的に、です。
子どものように。
今朝の目覚めは、その気分でした。
これから、庭の草花に水をやり、動き出せば、この気分はたぶん消えるでしょう。
今日は久しぶりに、小美玉市にある文化センターの「みの~れ」に行き、旧友たちと会いますが、みんなと会っている時には、いつものような気持ちに戻って、寂しさなどはみじんも感じさせないでしょうし、私自身も感じなくなっているでしょう。
でも、今朝の孤独感と無性な寂しさは消えることはないでしょう。
明日も、襲われるかもしれません。
今朝の気持ちを残しておきたくて、書き残してしまいました。
節子の寝顔を実に美しかった。
あれはもしかしたら、節子ではなく、私の理想の伴侶だったのかもしれません。
だから、本当の節子が起こしに来たのかもしれません。
もちろんそれも夢の中で、ですが。
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