■節子への挽歌2806:人は常に自らとしか話していないのかもしれません
節子
朝早く、Kさんから電話がありました。
奥さんの入院する病院がようやく決まったという連絡です。
精密検査の結果、思っていたのよりは少し良かったようで、数日前の電話とはまったく違っていました。
私も、前に電話をもらった日よりも精神的に安定していたのと、昨夜遅かったため起きたばかりだったので心が澄んでいて、前回とは違ってきちんと話ができました。
来月、東京に来るというのでお会いすることにしました。
なぜKさんがよく電話してくるかと言えば、なぜか私の声を聞くと元気が出るからだというのです。
私がどんなにひどいことを言っても、それはたぶんKさんには聞こえていないのです。
話していて、そう感ずることが少なくありません。
だから逆に私の言葉はきつくなるのですが、Kさんはそれも聞き流すので、私のトーンも下がってしまうわけです。
人は、聞きたいことしか聞こえてこないものなのかもしれません。
快適に生きるための自己防衛機制が人にはたぶん備わっているのでしょう。
そう考えると、人は常に自らとしか話していないことになります。
そう考えると納得できることが少なくありません。
自らとしか話さないとしても、相手はやはり必要なのです。
独りごとでは、自分とは話せません。
相手が発する言葉を、自分流に解釈し、それを「もう一人の自分」に置き換えて、話すことが大切なのです。
その時、その相手は自分をよく理解してくれている人であることが望ましいでしょう。
いや、正確に言えば、相手が自分を理解してくれていると確信できる人というべきでしょう。
その人が、自分を理解しているかどうかなどは大した問題ではありません。
それにもともと人は他者を理解などできるはずもありません。
大切なのは、理解されていると思えるかどうかです。
もう一人の自分こそが、時に伴侶であり、時に家族であり、時に親友です。
だから、その人がいなくなると、自分もいなくなってしまったような感じがしてくるのかもしれません。
もう一人の自分が不在のまま、8年近くが経とうとしています。
だから時々、無性に人と話したくなるのかもしれません。
そして時々、だれとも話したくなくなるのかもしれません。
今日は午前中は、少し畑にでも行って、鋭気を養い、午後は川口に行こうと思います。
国際箸学会の小宮山さんから誘われていますので。
ちょっと疲れますが。
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