■節子への挽歌2804:夢のない余生はよくないかもしれません
節子
朝の草花への水やりは、今まで以上にていねいにやれるようになってきました。
時々、自分でも思うことがあるのですが、節子がいなくなってから、生き方が随分と粗雑になっています。
気づいてはいるのですが、なかなか直りません。
まずは、毎朝の水やりから正していこうと思います。
昨日、ジュンのパートナーの峰行が、わざわざ手作りのケーキを作ってきてくれました。
少し早い私の誕生日祝いです。
彼は柏でイタリアンのお店をやっていますので、帰宅するのが真夜中の12時を過ぎることも多いようです。
昨日も12時過ぎに帰宅し、それから作ってくれたのだそうです。
とてもおいしいケーキでした。
節子にもお裾分けをお供えしました。
ケーキを食べながら、質問されました。
今年の夢はなんですか、と。
即座に、夢はない、と口に出てしまいました。
せっかくの元気づけの行為を無にする反応です。
そこが私の一番悪いところなのですが、まあ、彼ももうわかっていることでしょう。
最後まで夢を見続けられる人もいます。
いや、夢を持ち続けることが生きる意味を与えてくれるとも言えるでしょう。
言い方を変えれば、夢があれば生きる意味がある。
しかし、生きる意味への関心を失ってしまうと夢は不要になり、生き方も粗雑になりかねません。
まさに私はこの数年、そういう状況に置かれています。
生き方はかなり粗雑にはなっていますが、だからと言って、他者をぞんざいに扱うことはしていません。
というか、実は昔から他者への言葉を取り繕うことは不得手ですので、それがぞんざいだといえば、昔からぞんざいでした。
娘のジュンから、お父さんと話をして、もう2度と来ないと思う人も多いだろうね、と言われました。
そういえば、湯島に来て、私のあまりに「不躾な」言葉に腹を立てる人は、私が自覚している人だけでも3人はいますし、たしかに来なくなる人もいます。
節子が湯島に一緒にいた頃は、来客が帰った後、あの言い方は失礼でしょうとよく注意されたものです。
しかし、私には悪意はほとんどありませんから(2度ほどは悪意を自覚していたことがありますが)、直しようがありません。
正直な反応をすることこそが、誠実なのだと私は思い込んでいるからです。
困ったものです。
さて、もう少し生き方を丁寧にし、夢もきちんと意識するようにしましょう。
そこからまずは自分を変えていく。
頑張らなくてはいけません。
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