■節子への挽歌2795:供物のお裾分け
節子
少しずつ生活のリズムが取り戻せそうです。
節子の生家から大きな荷物が届きました。
何だろうと思って開けてみたら、法事の供物のお裾分けでした。
先日、法事があったのですが、行けなかったのですが、なんと私にまで送ってきてくれたのです。
この供物を参加した人たちで分かち合うという文化が、最初は私には新鮮でした。
ご仏前などの金銭とは別に、みんな思い思いの品物を持ってくるのです。
だいたい参列者の数を見越して、その数だけ持ってきます。
お菓子もあれば、果物もあれば、日用品もあれば、いろいろです。
昔はたぶんお金ではなく、こうしたものを持ち寄ったのかもしれません。
法事が終わると、それをみんなで分けるのです。
私は、世事に疎い人間でしたので、そうしたことがとても興味深かったのです。
節子が元気だったころ、節子の生家の法事での私の仕事は子どもたちと一緒にそれを仕分けすることでした。
大きな法事の時は一人では持てないほどになります。
今回は、そのお供え物のお裾分けが送られてきたのです。
実に懐かしい気持ちになりました。
節子の姉夫婦と一緒に、私もささやかなお供え物をしました。
それも私の名前入りで入っていました。
自分にも戻ってくるのが素晴らしいです。
故人をみんなで思い出しながら、飲食を共にし、お互いの健康を気遣い合いながら、お供えをみんなでシェアする。
こういう文化が、都会にはもうほとんどないと思いますが、香典文化ではなく、供物文化のほうがあったかくていいです。
以前、香典を用意できないのでお葬式にいけなかったという話を聞いたことがあります。
お供え物であれば、道端に生えている草花でも大丈夫です。
しかし、都会では、その草花さえ手に入れにくい。
さびしい時代になってきているような気がします。
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