■節子への挽歌2785:死は何か「ちょっと珍しい日常事」
余命宣告を受けた友人がいます。
余命宣告を超えている友人もいます。
いつ死んでもおかしくない友人もいます。
しかし、いずれの友人にも私には別れの感覚はありません。
これまでと何の変化もないように、それぞれと付き合っています。
ただ相手は、その人によって、微妙に違っているのを感じはしますが。
節子を亡くしてしばらくしてから、死は終わりではないという気が身についてきました。
一種の精神防衛機能が作動したのかもしれません。
そう思わないと耐えられないからです。
そうして今では、必ず来世があると思えるようになってきています。
死に対する感覚は、大きく変わりました。
時間を経るにつれて、そういう感覚が強まり、いまでは死が何か「ちょっと珍しい日常事」のようになってきています。
もちろん実際に死に直面したら、そんなはずもなく、大きな衝撃を受けるでしょうし、自らの死を宣告されたら心が揺らぐことでしょう。
しかし、なにか死が特別のことではないような気が、最近は強まっているのです。
同時に、自らの死が、とても身近に感ずるようにもなってきています。
風邪をひくように、もしかしたら、死も突然にやってくるのかもしれません。
そんな気も、時にすることがあるほど、いまや死は「ちょっと珍しい日常事」になっています。
いずれにしろ、死は終わりではありません。
生き方よりも死に方が大切だという言葉がありますが、そうではなくて、死の先をどう生きるかが大切だと、最近は思えるようになってきています。
死を超えて生きている節子が、少しうらやましい気がします。
私もまた、節子のように、死を超えてもしっかりと生きられるといいのです。
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