■「70年の不戦」その7:戦場は「殺す場」なのか「殺される場」なのか
話が横道にそれているので、先日の「不戦の70年」サロンの話題に戻ろうと思います。
その時に、私が発言したことの一つが、「戦争における対立構造」の問題です。
戦争は「国家対国家」の対立構造で捉えられますが、そうではないのではないかという問題提起です。
9.11の後、ブッシュが、「テロとの戦争」と言いだしてから、戦争は変質し、IS国などというものが出てきましたが、これに関しては前にも書きました。
ただし、その後の動きを見ていると、これは決して「国家」とは無縁でない気がしてきました。
アメリカ独立戦争もイスラエル建国戦争も、こんなスタイルで始まったのでしょうから。
しかし、もっと根底にある構造に目をやる必要があります。
近代国家のスキームではとらえられない対立構造が強まっているように感じます。
山本七平さんの「私の中の日本軍」の中にこんな文章があります。
私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二種類にわける。その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。(中略)この人びとは、いわば絶対安全の地帯から戦場を見ている人たちである。だがもう一つの人びとにとっては、戦場は殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所でなく繊滅される場所なのである。」 (中略) 前線の兵士たちにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。そして、ここに、前線の兵士に、敵味方を越えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた最前線の兵士だった。これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。
山本さんは、「戦争をさせる人たち」と「戦争をやらされる人たちの構図で捉えています。
これも一つの捉え方ですが、私はさらにその奥に、「戦争を起こすシステム」と「そのシステムに駆りだされる人間」の構図があると思います。
このブログでも何回か書いているように、要は「システム対人間」の構図なのです。
その対立構造の中で、戦争もまた生まれてきています。
アーレントが喝破したように、凡庸な人だったアイヒマンが巨大な悪を実行できたのは、システムに魂を売り払ったからなのです。
さらに言えば、システムに魂を売った人間は、そうでない人間とは明らかに違います。
しかし、どちらが幸せで平和かというのは、これまた悩ましい問題です。
サロンでは、ついつい「家畜の平和(幸せ)」と「野生の平和(幸せ)」という、いささか過激な言葉を使ってしまいましたが、私たちはどこを目指そうとしているのでしょうか。
自分の問題として考えてみても、これは難しい問題です。
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