■「70年の不戦」その6:「信頼関係」を失わせてきた「不戦の70年」
昨日はやはり時間がなくて書けませんでした。
6月27日に、若者を中心にしたカフェサロンを開きました。
若者中心と言っても、大学生が3人と私のような高齢者も含めた40代以上が6人ですから、頭数では若者中心ではありません。
この集まりももう3回目ですが、私がそもそもこれを始めたきっかけは、学生たちに社会のことをもっとよく知ってもらい、彼らからの発信の場をつくれないかということでした。
社会に入れなくなっている若者たちの多さを日々実感していたからです。
しかし、サロンを開いても、若者はあまり集まらず、また、若者たちから「意志」が伝わってこずに、実はもうやめようかと思っていたのです。
ところが、その集まりを終わった後、参加していた一人の若者から、3回目にしてようやく若者層と元若者層の心が少しだけつながった気がしたと言われました。
そこで自分の不明さに気づきました。
つまり私たちは「信頼されていなかった」のです。
たしかに、話し合いの途中である若者から、作業を押し付けられる危惧の表明がありました。
作業を押し付ける気は全くありませんし、そもそも私の意識では彼らのために私自身がかなりすでに多くの作業をしている気持だったのです。
この「彼らのため」という意識が、そもそも「押し付け」かもしれませんが、彼らは作業を押し付けられることを懸念していたのです。
思ってもいなかったことでした。
ある調査によると、日本の社会はもはや「信頼」を基本にした社会ではなく、注意しないと誰かに騙される社会だと認識している若者が8割もいるそうです。
大人たちが呼びかける集まりには、何か裏があると感じる状況がすでにあるのかもしれません。
この集まりに関しては、最初から私は明確に目的を話してきているつもりですが、あまり伝わっていないようです。
すでに日本の社会は、「不信」を基盤とする社会に、変質してしまっているのかもしれません。
私が育ったころの日本社会は、人への信頼感があった気がします。
ちなみに私は、人を信頼することから付き合いを始めるようになっていますが、これはたぶん育った時代の社会がそう育ててくれたのだと思います。
話が「不戦」と関係ないところに向かっているように思うかもしれません。
しかし私には深くつながっていることです。
まず、もし、この「70年の不戦」の時代が、「信頼関係」を壊し不信を育ててきたのであれば、それは果たして「不戦」と言えるのだろうかという疑問です。
もうひとつは、信頼できない関係が広がっていけば、それこそいつか「戦争」につながるのではないか。
言い換えれば、信頼を育てることこそが、戦争を回避することではないかということです。
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