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2015/06/02

■節子への挽歌2811:見失っていたあったかさ

節子
私の好きな言葉は「あったかい」です。
今年の誕生日にメールをもらった中に、この言葉が出てくるものがいくつかあり、それがとてもうれしかったです。
たとえば、ある方はこんな過分なメッセージをくれました。

コムケアセンター(湯島のオフィスのことです)にはあたたかい氣が充満していますね!
コムケアセンターは都内随一のパワースポットだと思います。
佐藤さんの存在自体がみんなのオアシスだと思いますので、くれぐれも家庭菜園に熱中しすぎないようお願いいたします(笑)

これはもう過剰な褒め言葉ですが、「あたたかい氣が充満」とか「みんなのオアシス」などと言われると、何かうれしくなってしまうのは、まだまだ自分がしっかりしていないからでしょう。
しかし、節子にも聞かせたい言葉です。

湯島に行くと何かホッとして、あたたかい気持ちになります、という方もいました。

わが家も「あったかな家族」を目指していました。
そう言われていたころもあります。
しかし、節子が闘病生活に入ってから、ある意味で大きく変質しました。
私自身に余裕がなくなったのです。
本来であれば、そうした時期であればこそ、あたたかさが大切でした。
もちろん「あたたかさ」がなくなったわけではありませんし、何かが変わったわけではない。
でも、何かが変わってしまった。
「あったかい」と実感することができなくなってしまったのです。
あったかさを自分で実感できなければ、他者にあたたかさを感じてもらうことなどできません。

「あたたかい」という言葉を聞いたのは、まさに節子が闘病していたころです。
代々木のセンターで、NPOへの資金助成プログラムの公開選考会をやりました。
その会場で、発表前にある人が私の言動に関して、隣の人に「なにかあたたかいわよね」と話しているのが耳に入りました。
実はその方も、伴侶の闘病生活に取り組みながらのNPO活動でした。
その言葉が耳に残りましたが、人からあたたかいと言われることが大切な生き方なのだと気づいたのです。
残念ながら、その方の伴侶も、介護の甲斐なく旅立ちました。
その方はその後、わざわざ湯島にまで来てくれましたが、お互いに伴侶のことは話せないまま終わりました。

実は、私の生き方は、言葉においては決して「あたたかさ」を相手に感じさせるものではありませんでした。
むしろ相手の気持ちを逆なでしたり、不躾だったりすることが多いのです。
節子からはよく注意されたものです。
たぶんそれはいまも変わっていません。
昔も今も、相手がだれであろうと、人として考えているからこそ素直に反応してしまう。
それこそが私にとっての「あたたかさ」なのですが、それがいけないのでしょう。
ソフィストケートされていないのです。
昨日も友人の武田さんから、もう少し注意したほうがいいよと指摘されました。
彼でさえ、腹が立つことがあるようです。

でも私の「あたたかさ」を感じてくれている人もいるようで、そう言葉ではっきり言われると、私自身があたたかくなってきます。
私もまた、少しずつ「あったかさ」を取り戻せているようです。

でも人生は、私にはまだ「あったかく」はなっていませんが。

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