■時評がやはり書けません
このブログでは、以前は毎日「時評編」も書いていました。
しかし、だんだんと書けなくなってきました。
特にこの半月程は全くと言っていいほど書けなくなっています。
なぜなのかと自分でも考えているのですが、自分自身の生き方にたぶん原因があるのです。
「心理主義の罠」のような気もしますので、注意しないといけませんが、やはり問題は自分にあるように思います。
一言で言えば、社会への関心を失いつつある。
というか、最近の社会は、私自身がその「一員」であると実感できなくなってきている。
たとえば都心に出て行って、高層ビルのまわりを歩いているビジネスパースンを見ているとどうしても「私と同種の生き物」には見えません。
あるいは表参道や銀座を歩いて、華やかな女性たちや若者たちを見ていても、それも「私と同種の生き物」には見えてこない。
モダンな人工装置の中を元気よく歩いている「人らしい生き物」は、私にはまぶしいほど進化した「新人類」に見えてしまい、私とは別の生き物に感じられる。
いまの社会に、私自身がついていけなくなっているのです。
時々、ふと思うのですが、私が気づかなかった間に、エイリアンによって世界は変えられてしまったのか、あるいは核戦争が勃発して、みんなもう死者の世界を生きているのか、そんな気さえします。
こんなことを書くと私の「正気」が疑われそうですが、最近は私にとっても「正気」の人と出会えることが少なくなってきています。
まあ、どちらが「正気」かは、一概には決められませんが、「正気」と思える人は本当に少なくなったような気がします。
幸いに私はまだ、「正気」の人に囲まれて生きていますから、身の回り的には生きやすさはあるのですが、でもその小さな社会の外に広がる社会は、どうもなじめない。
私とは違う世界のような気がして、考える気にならないのです。
だから、時評も書く気が起きないし、書くことが浮かばない。
まわりの世界に「生気」を感じられないのは、自らの「生気」が枯れているからでしょう。
生気がなくなると、周りの生気など感じられなくなってしまう。
つまり「生気」を失ったのは、私なのです。
それが、たぶん、時評を書けない理由なのです。
先週から、私自身の生活リズムを回復しようとしています。
挽歌は毎日書けるようになってきました。
いささか最近は自分の世界に引きこもりた気分におおわれているのですが、来週からは時評も書けるように、社会的な生活リズムも整えていこうと思います。
時評の再開は来週からです。たぶん、ですが。
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