■スチュアート・ミルの警告
時評を再開します。
依然として気分は乗らないのですが(実際にはますます厭世観が強まっています)、だからこそ再開します。
まずは、ジョン・スチュアート・ミルの言葉を取り上げようと思います。
「たとえ、有益な目的のためでも、人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成しえないことをやがて悟るであろう」
この言葉は、ジョン・ダワーの本「忘却のしかた、記憶のしかた」で知った言葉で、原典には当たっていません。
ジョン・ダワーが紹介している、カナダの歴史学者E・H・ノーマンが1948年に慶応大学で講演した記録の中に出てきます。
有名なカントの命題「人格に存する人間性を、つねに目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」を思い出します。
スチュアート・ミルのこの言葉を思い出したのは、昨日まで企業の人たちと経営問題に関して話し合う合宿に参加していたからです。
こうしたことが、実際に話題になったわけではありません。
なんとなく、みんなの話を聞いていて、思い出されてきただけです。
安部首相は、日本という国を「取り戻す」(人民から取り戻すという意味でしょうが)ために、まずは教育基本法から取り組みだしました。
明治政府と同じです。
まずは人民を「国民」にし、富国強兵に取り組むことによって、明治政府は短期間で近代国家に近づきました。
これもジョン・ダワーの本からの受け売りですが、ノーマンは、もし明治初期にもっと多くの血が流れ、それによって日本人がもっと本物の自由を勝ちとっていたら、世界は日本の侵略から免れていたかもしれない、と言っていたようです。
それにもうなづけますが、この話はまた別に書きたいと思います。
私は、阿部政府の思想や姿勢に反対ですが、その取り組み方は評価します。
野党には、そうした戦略志向がありませんから、独走を止めようがありません。
国民は、見事に「阿部政府」の「教育」によって、道具になっていることさえ気づこうともしません。
しかし、実は私たちが「道具」になっているのは政治だけの世界ではないように思います。
経済(企業)活動においても市民社会活動においても、状況は同じかもしれません。
そして、もしかしたら、日本人はもともと「道具的存在」が、その特質なのかもしれません。
2日間、企業経営に関する話をしながら、頭のどこかで、そんな疑問が強まってきてしまっていました。
よく誤解されるのですが、私はいまの政治や経済や企業やNPOを否定したり、敵視したりしているのではありません。
先行きを心配するという意味で、むしろ応援しているのですが、なかなかそうは受けとられません。
先日もビジネススクールで話したのですが、多くの「敵意」を感じました。
困ったものです。
私が危惧しているのは、ミルが、「人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める国家は、小人によっては偉大な事業を真に達成しえないことをやがて悟るであろう」と言っているように、目先はともかく、その努力が報われないのではないかということです。
しかし、社会の流れは、「人間が手頃な道具になるように人間の成長を矯める」国家や組織を向いています。
そもそも学校も、その先端を走っているように思います。
それに抗う方策は一つだけです。
自らが道具にならないことです。
まわりの誰かを道具にしないことです。
しかし、無防備な子どもたちにはそれは期待できません。
さてどうするか。
道具になっていない先生を応援するしかないのでしょうか。
社会のことを考え出すと、すぐにやるべき課題に出会います。
そしてまた厭世観に負けて引きこもりたくなります。
しかし、道具にだけはなるまいと思っています。
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