■社会の民度が劣化している?
最近、痛感するのが、日本の社会の民度の劣化です。
こんなこと言うと、何を偉そうなと笑われそうですが、そう思うことが少なくありません。
社会の民度とは、私の勝手な定義づけですが、自分の主体性に基づいて、他者と一緒に、みんなが生きやすい状況を積極的につくりだそうとしている人がどの程度いるかということです。
一般に民度とは、人民の生活程度や文化水準の程度を言います。
しかし、「生活程度や文化水準の程度」をどうやって測定するかは悩ましい問題です。
先週もある人と、石器時代の人たちと現代の人たちとどちらが幸せかが問題になりましたが、それは、たぶん比較不能な問題です。
サーリンズの「石器時代の経済学」は面白い本ですが、私たちは決して石器時代人にはなれませんから、その気持ちまではわかりません。
「生活程度や文化水準の程度」で、社会の質を測定するのは適切とは言えません。
だから、私は、そこにいる成員の主体性や自律性、そして社会性(社会とのつながりの意識)に「社会の民度」の基準を置いています。
経世済民の徒とも言われる柳田国男は、権力の腐敗を防ぐためには「民衆もまた大いに覚るところがなければならぬ」と言っています。
国民が自主的な判断力、社会的な判断力をもつことが社会や国家を豊かにすると考えていたのです。
彼は普通選挙の実現に取り組みましたが、普通選挙制度がまた、金権政治や利権政治に向かう可能性を内在させていることも危惧していました。
そのために、柳田は「公民教育」に大きな期待を持っていました。
国民がよき学問を身につけて選挙に臨むことが、「生活苦」を救い社会を豊かにする政治を実現すると考えていたのです。
コミュニティ論の古典と言われるマッキーヴァーの「コミュニティ」に、こんな文章があります。
多数者支配の原則に身を託している今日の世界において、唯一の希望は、社会教育や社会的責任の教育、ならびに全人格の価値、自発性を第一義とし、強制を第二義とすることの主張、たとえ法的、政治的に許されても、深く持続的な対立を生み出し、コミュニティの力を減ずるような要求を差し控える方が賢明であることの強調である。
そして、彼も、「コミュニティの生命力は、成員である各人の個性と社会性に依存している」というのです。
つまり構成員の生の成熟をコミュニティの発達と考えていたのです。
こうした視点で考えていくと、いまの日本の社会は、劣化しているとしか思えません。
その象徴的な表れが、現在の安倍政権のような気がします。
学ぶことを忘れた国民は、決して良い政府を持てないでしょう。
そんな思いもあって、湯島では様々なテーマでの気づきの場を開いています。
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