■人を使わない戦争の可能性
前の記事の続きです。
「戦争ができる国」になるかどうか。
それは、私たちが「人を殺すことができる人間」になるかどうか、にかかっています。
最後の砦は、結局は私たちなのです。
しかし、その最後の砦が、今や浸食されだしています。
2つの方向から。
と書きました。
2つの方向とは、「教育の徹底」と「戦争の仕方の変化」です。
教育の徹底に関しては、書くこともないほど明白です。
なにしろ日本人は、いまやすでに「戦争」を歓迎しているようにさえ見えます。
そうでなければ、安倍政権が高い支持率を受けることはないでしょう。
軍隊がなければ国は守れないなどという思いも育っていないはずです。
軍隊は、国家を守ることがあるとしても、国民は守りません。
そんなことは歴史を少し調べればすぐにわかるでしょう。
軍隊が殺している人間は、戦争相手の国民とは限りません。
沖縄の人たちは、それを生々しく体験してきたのです。
しかし、もうひとつ気になるのは、戦争の仕方の変化です。
自らを生命の危機にさらさなくても、人が殺せるようになってきたのです。
最近、日本でもいろいろと話題になっているドローンから爆弾を発射して人を殺す方法が取り込まれだしているのです。
自らは殺される危険性のない殺し方です。
極端に言えば、電子ゲームのようなものですが、機器の操作者の動作は同じでも、ゲームの向こうの現場では実際に人が殺されているわけです。
その操作技術が、電子ゲームによって、若者に「思考形式」と同時に、「教育」されているのです。
画面上の「悪者」が、いつ、敵国ないしは問題が起こっている地域の「人民」になったとしてもおかしくないのです。
恐ろしい時代に向かっていると思うのは、私だけでしょうか。
電子ゲームが、人の心にどれほどの影響を与えているかを、ゲーム会社の人たちはわかっているのでしょうか。
いや、わかっているからこそ、そうした「殺しに慣れる人間」を育てることに加担しているのかもしれません。
そして、戦争における「対立軸」が変わっていることに注意しなければいけません。
戦争は「国家間の争い」ではなくなり、「殺されることのない選ばれた人」による「普通の人」への支配行為になりつつあるわけです。
「殺し合いの戦争」から「一方的な暗殺行為」に変質したと言えるかもしれません。
経済の世界で「1%対99%」の対立が顕在化しつつありますが、政治の世界もまた同じ構図が生まれつつある。
世界は今、大きく様相を変えてきているように思います。
そうした展望の中で、ISの動きを見ているといろんなことが見えてくるような気がします。
これまでの思考の枠組みで見ていては、世界は理解できないような気がしてなりません。
いやもっと恐ろしいことも示唆しています。
書きだすと止まりません。
少し、違う話題を入れてから、また書こうと思います。
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