■「70年の不戦」その9:戦争は誰に向けて行われるのか
戦争における「隠された対立構造」は、「支配者と非支配者」です。
決して国家と国家、つまり権力者と権力者の対立が、近代以降の戦争の実体ではありません。
そう考えると、戦争や軍隊や抑止力に関する見え方も違ってくるはずです。
たとえば、軍隊が鎮圧や暴力行使の対象とするのは他国だけではありません。
よく言われるように、戦争ができる軍隊を持つということは、国民を暴力的に支配できるということでもあります。
事実、軍事力は自国の国民に向かって発動されるケースが多いという報告もあります。
しかも、今回の自民党憲法改正案をよく読めば、そういうことが可能になるように書かれています。
戦争は国民を守るためだけではなく、国民を「隷従」させるためにも行われるのです。
前に書いたように、戦争を行うには、戦争に荷担する国民が必要ですが、もし国民が自発的隷従しないようであれば、軍隊がそれを強行できるのです。
このことは、先の戦争における沖縄で起こったことが、実証しています。
集団的自衛権などで使われる「自衛」の概念も、誰が主語なのか、そして「護る」ものはなんなのかをきちんと考えなければいけません。
しかし、いまの時代、それをしっかりと考えている人はいないでしょう。
ほとんどの人は、言葉のマジックにかかってしまい、結局は戦争に向けての動きに荷担してしまいがちです。
戦争とは、所詮はある「対立」をなくしていく方策です。
としたら、戦争につながる「対立構造」を明確にしなければいけません。
そのためには、現在の社会のあり方や経済のあり方を含めて考えなければいけません。
ちなみに、中国が日本に攻めてくるという人がいますが、もし攻めてくるとしたら、それは「中国」ではなくて「中国に住んでいる人」です。
それも「戦争」をしたいと思っている人に操られて、強制された人たちでしょう。
そういう人たちは、「敵」ではなくて「仲間」なのです。
そんなことにさえ気づかないのは、すでに「国家」の隷従者になっている証拠でしょう。
ヘイトスピーチをしている人たちは、まさに「自発的隷従者」として飼いならされた傭兵のように思います。
だんだん言葉が粗雑になってきました。
最近、私自身の心があれているせいなのですが、注意しないといけません。
もう1回だけ書いて、このシリーズは終わりにします。
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