■節子への挽歌2865:「人は「永遠」に弔われる存在」
節子
一条真也さんが2冊の本を送ってきてくれました。
「永遠葬」と「唯葬論」です。
一条さんの、まさにホームグラウンドでの新著です。
お礼のメールを書いたら、この前の日曜日(7月26日)に、この2冊の本の出版を記念して、地元の映画館で、映画上映と併せたトークショーをやったことが書かれていました。
上映映画は「おみおくりの作法」と「マルタのことづけ」。
その間に、一条さんのトークショーというプログラムです。
なんと魅力的なプログラムでしょうか。
その時に話されたことなどが、一条さんのハートフル・ブログに詳しく書かれています。
ぜひお読みください。
とても共感できるお話です。
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20150726/p2
そのブログに、一条さんは、「死生観は究極の教養である」という持論を書かれていますが、私も最近、そういう思いを強めています。
すべての教養は、死生観のためにあったのだという気付きと言っていいかもしれません。
ですから、一条さんの「唯葬論」には大きな関心があります。
しかし、まずは「永遠葬」を読むことにしました。
一条さんからも、その順序を薦められましたし。
ところで、「永遠葬」とはどういう意味でしょうか。
一条さんの造語だと思いますが、一条さんは、最近の直葬やゼロ葬に対する問題提起の意図をお持ちのようです。
なんとなくその趣旨はわかりますが、どんな意味を込めて「永遠葬」と名付けたのか、とても興味があります。
本の帯に、「人は「永遠」に弔われる存在です」というコピーが書かれています。
素直に心に入りますが、でもそれだけでは「永遠葬」の心は入ってきません。
一条さんのネーミングのセンスは抜群ですので、そこに込められた一条さんの思いを知るのが、楽しみです。
問題は、暑さのせいもあって、私が最近、なかなか本を読めなくなっていることです。
でもまあ、明日か明後日、「永遠葬」を読ませてもらう予定です。
ちなみに、私自身の葬儀は、自分で設計して実践できればと思っています。
それも、生前葬ではなく、死後の葬儀です。
節子がいたら、実現は確実でしたが、節子がいないいまは、かなりの難題かもしれません。
できれば、死期も自分で決めたいと思っているのですが。
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