■節子への挽歌2834:2人でいるときの方が「自由」
節子
2つ前の挽歌を読んでくださったpattiさんから、こんなコメントをもらいました。
2人でいるときの方が「自由」でした。 豊かであり、可能性も広がりも無限大のようにさえも思えました。 現実には様々な制約があるにもかかわらず。 心はとても自由だったのです。
私も、そうだったなと思いました。
いまとは比べようもないほど、自由だった。
現実には様々な制約があったのは、私の場合も同じですが、にもかかわらず、なぜか自由だった。
pattiさんが書いているように、まさに「無限大のような自由」だったのです。
いまは、まったく自由ではない。
論理的ではないのですが、それは間違いないことです。
たぶん、世界が違っていたのでしょう。
pattiさんは、時間的自由と書いていますが、私の場合、時間的にも自由は失われて気がしてなりません。
時間の意味が変わってしまった。
時間が未来に向けて広がらないのです。
節子がいた時と今とでは、時間の意味さえ変わってしまったのです。
時間に拘束されて生きる「自分」が消えてしまったのかもしれません。
共に生きることで窮屈になることもある。
しかし、共に生きることで、無限大の自由を得ることもある。
自由とは、実に不思議な概念です。
しかし、2人でいるときの方が「自由」というのは、実に納得できることです。
最近の私の生が、生き生きとしていない理由はそこにあるのかもしれません。
私にはもう「自由」はもどってこないのかもしれません。
いささかさびしい気がします。
| 固定リンク
「妻への挽歌15」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌3000:3000日目(2015.11.19)
- ■節子への挽歌2999:「元気そうでよかった」(2015.11.18)
- ■節子への挽歌2998:歩いているとみんな良い人になる(2015.11.17)
- ■節子への挽歌2997:食材の安全性(2015.11.16)
コメント