■節子への挽歌 2825:生きるための「労働」への無関心への反省
節子
昨日も書けませんでした。
何が起こるかわからないので、これからは朝に書こうと思います。
私は基本的に朝型ですが、最近は慢性寝不足で、朝もあまりすっきりしないのですが。
今朝も雨です。畑に行けそうもありません。
今や野草の世界に変わってしまっていそうですが、仕方がありません。
しかし、今年は比較的きちんと手入れをしたので、きゅうりと茄子はたくさんできました。
ミニトマトも、とても甘くておいしいです。
一昨日、敦賀の義姉からも野菜がどっさり届きました。
最近、少しずつですが、私も料理を始めました。
そうやって始めてみると、家事というルーチンワークを毎日きちんとやることの大変さを実感します。
私はずっとこういう支えを妻や娘たちから受けていたのだと感謝の念が強く出てきます。
やはりまだまだ私には気づかないことが山のようにあるのでしょう。
アーレントは、「仕事」や「活動」を、「労働」と分けました。
「労働」とは、人間としての生存に伴う自然的な必要を満たすための者と考えたのです。
どうも私は、アーレントの言う意味での「労働」を節子にまかせっきりにして、自分では誠実に対応してこなかったようです。
それは、私が頭で考えていることと真逆な生き方なのです。
それにさえ、これまで気づかなかったのです。
なにかこれまでの生き方を根底から揺さぶられているような気がします。
今日は、幸いに1日中、在宅です。
心やすらげる1日になることを祈ります。
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