■節子への挽歌2852:「出会い」は気づきのためにある
節子
人は、人との出会いで、人生を変えていきます。
どういう人に出会うかで、人生は大きく変わります。
しかし、どんな人に出会うかは、かなり自分で決められます。
通り過ぎずに、出会いを活かせるかどうかは、自分の問題だからです。
人との出会いを一過性のものにするのも、自らの人生につなげていくのも、それは自分の問題です。
出会いの最たるものは、やはり結婚でしょう。
お互いに、相手の人生に全面的にコミットすることですから、論理的に考えたら、とても恐ろしいことでしょう。
非常に特殊な関係であり、むしろ人類の歴史の中では「特殊な関係」というべきかもしれません。
私が生きてきた昭和の時代は、その結婚制度がある意味で理念的に存在できた稀有な時代だったのかもしれません。
私たちが、まさにその時代に生まれたのも、意味があることだったのでしょう。
伴侶の人生に全面的にコミットするのは、やはり主体的な生き方とは矛盾します。
にもかかわらず、私の中ではあまり矛盾を感じていないのはなぜでしょうか。
私はこれまでたくさんの人に会ってきました。
会社時代もそうでしたが、会社を辞めてからは、ある意味では人と会うのが仕事でした。
最初の頃は毎年1000人くらいの人に出会っていたような気がします。
毎月、100枚単位で名刺がなくなっていましたから。
しかし、いまも付き合いがある人は、ほんのその一部です。
しかし、不思議と記憶に残っている人はいるものです。
その人たちは、たぶん私の生き方に影響を与えているのでしょう。
もしかしたら、私と出会ったことで、少し生き方を変えた人もいるかもしれません。
節子と出会わなかったら、私の生き方はどうなっていたでしょうか。
たぶん「失速」していたはずです。
そうならなかったのは、節子が「愚妻」だったからです。
節子は、私に何も期待せず、そのままの私を受容していました。
私が、わがままに自分を生きてこられたのは、節子のそういう姿勢でした。
だから節子がいなくなってから、失速してしまったのは、当然のことなのです。
転勤した若い友人から手紙をもらいました。
「佐藤さんとでの出会いでいろいろな“気づき”を得ました。」
その一言がうれしくて、こんなことを書いてしまいました。
「出会い」は気づきのためにこそあるのです。
そして「別れ」もまた、気づきをたくさん与えてくれます。
「出会い」も「別れ」も、大事にしない最近の風潮がさびしいです。
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