■節子への挽歌2849:引きこもり生活の効用
節子さわやかな朝です。
しかし、今日も暑くなるようです。
最近いささか「引きこもり」がちになっていますが、引きこもっていると、いろんなことに気づかされます。
動きの渦中にいると気づかないことや考えもしなかったことも見えてきます。
もちろん、生きるということの意味も、違う見え方がします。
生きるのに忙しいと、生きることの意味など問うこともないでしょう。
いわば「感性」が磨かれていく。
引きこもりに陥ってしまう若者たちは、たぶん、それによってますます社会への距離感を持ってしまうのかもしれません。
さらに、止まっていると周りで動いている人たちよりも、もしかしたら止まっている自分の方が生き生きしているのではないかという気にさえなります。
動いているけれど、どうも考えていない存在。
つまりロボットに見えてきてしまう。
まあ、これはいささか「言い過ぎ」ですが。
その一方で、生きることの大変さにも気づきます。
みんな周りのことを気にする余裕がないのです。
そもそも、人は国家単位や世界単位で生きているわけではありません。
小さな人間的なつきあいのコミュニティの中で生きている。
しかし、どうやら最近の「コミュニティ」は、生きていくためには広がりすぎている。
付き合う人も増えてきてしまった。
だからきっと周りを気づかう余裕がないのです。
たぶん「生きづらい時代」になっているのでしょう。
自分で「生きづらく」しているのかもしれませんが。
私はフェイスブックをやっていますが、フェイスブックからは世相が見えてきます。
みんな、それぞれに平和なのです。
もちろん、深刻な問題や現状のままでいいのかという呼びかけもある。
しかし、概して平和でのどかな記事が多い。
どうでもいいような記事が多い。
私も、時々、そんなのどかな記事を書き込みます。
人々の暮らしというもののほとんどは、そんな世界でしょう。
そういうことが流され続けている社会は平和に違いない。
でも、と、引きこもっていると感ずるのです。
「小さなコミュニティ」の生活に埋没していていいのだろうか、と。
むしろ、引きこもっているのは、動いている人たちではないのか、と。
引きこもり生活にも、効用はあるのです。
この先は時評編の世界です。
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