■節子への挽歌2860:長い生とよい生
節子
今日も、暑くなりそうです。
まもなく巡礼に出る友人から、1冊の本を教えてもらいました。
トマス・ア・ケンビスの「キリストにならいて」です。
巡礼中に持参する本として選んだのだそうです。
その本のことは知りませんでしたし、もし知っていても、読むことはなかったでしょう。
しかし、なんとなく気になり、手に取ってみました。
なにしろ読書家のSさんが、2か月半の巡礼に持参する本として選んだ1冊ですから。
最初の書き出しは、「私に従うものは暗の中を歩まない、と主はいわれる」とありました。
いかにも、という感じの書き出しです。
そういう反応をする読者がいることは、当然予想されていて、その文章につづき、いろいろと諭されることになります。
以前なら、ますます心は遠のくのですが、なぜか今回は読み進めてしまいました。
そして、すぐにこんな文章に出会いました。
あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みとがなければ、その全てに何の益があろう。なぜか奇妙に心に響きます。 さらにこう書いてあります。
長い生を望みながら、よい生について心を用いることが少ないのは、空しいことである。
私が最近空しいのは、「よい生」への思いがなくなったからかもしれない、と思いました。
「長い生」への望みは、もとよりありません。
人を信ずることが「よい生」だと思い続けてきましたが、最近どうもそうではないという疑問が生まれていました。
なによりも、自らを信ずることができなくなってきたのです。
しかし、よい生は、神の愛と恵みによってもたらされる。
ケンビスは、そう言っています。
ケンビスの言う神は、キリスト教の神でしょうが、私にとっての神はもっと広義です。
あえて言えば、お天道様ですが、要するに「主語のない」愛と恵みです。
愛と恵みには、主語はいらない、というのが私の考えです。
言い換えれば、神は自らの内にある。
最近、忘れていたことを思い出しました。
「よい生」への思いを取り戻せるかもしれません。
この本を、読み続ける自信はありませんが、この本を開く気になったのもまた、愛と恵みの成せることなのでしょう。
暑さより、さわやかさを感ずる気がしてきました。
今日も「いい日」になりそうです。
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