■醜の王国
安保法制と違い、新国立競技場問題は、計画が白紙撤回されました。
そうなると、これまでの最初の案が、本当は嫌いだったなどという意見が、計画を認めた当事者たちからも出てきました。
なんとまあ、情けないことか。
まさに「裸の王様」の世界で生きている「有名人」の哀れさを感じます。
それはそれとして、新国立競技場のザハ案は、デザイン的に見てどうなのでしょうか。
審美の世界のいる人たちからは、ほとんど意見が出されませんが、意見をお聞きしたいものです。
発言がないということは、意見がないということかもしれません。
意見がないということは、「審美感」がないということでしょうか。
美に関心のある人であれば、発言すべきです。
「民藝」を発見した柳宗悦であれば、どう語ったでしょうか。
「美しい」と思ったでしょうか。
そう思って、久しぶりに柳宗悦の本を少し読み直してみました。
ザハ案は「ゴミ」だと言い切ってくれるのではないかという期待がありますが、それは私のあまりに大きな希望的観測でしょうね。
ちなみに、私は、ザハ案を見た時には、あまりの醜悪さと暴力性に唖然としました。
あんなものが、美しいと言われる時代がおぞましいです。
まあ、オリンピックそのものが、今や醜悪の極みになってきていますが。
もっとも、私は、最近の東京の風景がどんどん醜悪になってきていると思っていますので、時代の美意識にはついていけていない存在なのです。
だから、柳宗悦を思い出したのですが。
柳宗悦は、宗教と美の「統一理論」に挑戦したと言われますが、すべての人には「美仏性」があると主張しています。
つまり、すべての人たちは美しいものを受け取る力をもっており、世のあらゆるところに美しいものが現れる契機が汎在している、というのです。
にもかかわらず、なぜ世界にはこれほど「醜悪なもの」が存在するのか。
それは、人のもつ小賢しい分別だと柳は言います。
「美仏性は自在心であるから(中略)、それが分別に邪魔され、拘束されて不自由に陥ったり、自己にこだわって、その奴隷となったりする時、仏性を傷つけられてしまう」のです。
分別や我執にこだわらない自在心さえあるならば、人は本来内に備わっている美仏性を生きることができるというのです。
あのザハ案は、私には、新国立競技場に関わる人たちの我執の塊に見えましたが、案の定、その後の経緯を見ていると、そこに群がった人たちの我欲と我執が見えてきました。
そこに群がった人たちの醜悪さが、あのデザインに象徴されてしまったのでしょうか。
安藤忠雄さんの記者会見も、それはそれはひどいものでした。
そこには、美の感性は皆無でした。
柳宗悦は「美の法門」でこう書いています。
「この世には段々醜悪なもの俗悪なものが殖える一方で、美の王国の建設どころか、醜の王国さえ、現れかねない始末で、進んでは醜をさえ喝采する人たちも殖えてゆく現状であります。」
時代の流れには抗えないとしても、せめて自分だけは、醜に喝采する人にはなるまいと思っています。
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