■国家(ステート)から国民(ネーション)へ軸足を移す
安保法制への国民の反対運動が広がっていますが、これは簡単に言えば、選挙によって統治権を与えた主権者である国民と国家を統治する政府との乖離を意味しています。
同じような構図は、例えば沖縄辺野古問題に関して沖縄住民から統治を委託された翁長沖縄政府と阿部政府との関係にみられるように、国家政府と地方政府にも起こります。
そうした時に、果たしてどちらに主導権があるかどうかは、時代によって変わってきました。
この1世紀ほどの世界の歴史は、たぶん、国家(ステート)から国民(ネーション)への動きです。
英語のステート(国家)とネーション(国民)は、日本では似たような受け取られ方がされていますが、まったく別のものです。
ステート(国家)は、一言で言えば、統治機構です。
つまり、政府の構造(制度)やそれを支える法体系や暴力管理体制です。
それに対して、ネーション(国民)は、共通の統治機構の管理下にある人々の集団です。
多くの場合、ネーションは、共通の歴史的体験を持ち、その結果、価値観や文化も共有しています。
近代国家の多くは、ネーションが主権を持った国民国家です。
しかし、言うまでもありませんが、国民主権というのはあくまでも理念的な擬制であって、国民の主権が保証されているわけではありません。
ですからステートとネーションには乖離が生ずるわけです。
同時に、ステートの内部構造(中央政府と地方政府)においても、当然、利害の不一致が起こります。
問題は、そうした時に、どちらが主導権をもつかです。
これまでは、上位組織、つまり中央政府に主導権がありました。
国民主権や人権思想から言えば、出発点は個々の人間、あえて概念的に言えば、国民にあるはずです。
しかし、それを有効に組織化、制度化できなかったために、統治の基点にはおけなかったのです。
ですから政府が主導するしかなかったのです。
深刻な問題は、制度というものは常に人間を超える存在だということです。
そのわかりやすい例は、ヒトラーナチスでしょう。
ある段階を超してしまうと、もはやだれもが止められなくなったのです。
国会の委員会中継を見た人は誰も気づくでしょうが、政府側に座っている閣僚たちには、人間としての表情があまりありません。
制度の一部になっていることがよくわかります。
大切なのは、政治のベクトルを変えることです。
個々の人間を起点とした統治の可能性を模索することです。
そうしたことに、多くの人が耳を傾けだしました。
沖縄の翁長知事が、国連の人権理事会で呼びかけを計画していそうです。
時代の流れは、いま大きな岐路に立っているように思います。
前にも書きましたが、日本の国会はあまりに閉鎖的です。
国民を見ていないのは、与党や政府だけではありません。
野党も含めて、国会議員や政党は発想のベクトルを変えていません。
ですから大きな力にはなりません。
ステートの世界からネーションの世界へと軸足を移さなければ、政治は動かないでしょう。
昨日の山本太郎議員の質疑のやり方を見ていて、改めてそう思いました。
ちなみに、直接民主主義を目指して、30年程前にリンカーンクラブを立ち上げた武田さんが、もう一度、活動を開始しようかと電話してきました。
一緒に活動してもいいという方がいたら、ご連絡ください。
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