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2015/07/31

■節子への挽歌2867:人は墓標

節子
昨日、書いた一条真也さんの「永遠葬」を読み出したら、おもしろくて一気に読んでしまいました。
一条さんの世界が見事に展開されています。
本の感想は別途またホームページに書くつもりですので、ここでは書きませんが、読み終えて気がついたことがあります。
それは、「人は墓標」だということです。
もっと正確に言えば、私自身が節子の墓標なのだということです。

一条さんの本に、そう書かれていたわけではありません。
一条さんは、「永遠葬」という言葉に、「人は永遠に供養される」という意味を込めています。
その思いや趣旨には、とても共感します。
そうした一条さんの思いを、私なりに受け止めた結果が、「人こそ墓標」だったのです。

日本仏教には初七日から始まる年忌法要があります。
そして、五十回忌で「弔い上げ」となるのですが、一条さんは「死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わってホトケが供養してくれるといいます。つまり、「弔い上げ」を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続くわけです」。
供養する人が仏になる。
しかし、供養されている人は、もっと前に仏になっている。
供養する人、供養される人は、結局は同じ仏というわけです。
私にとっては、大きな気づきでした。
そして、脈絡もなく、突然思ったのです。
人こそが墓標なのだと。
そこの繋がりは、もう少しきちんと説明すべきかもしれません。
でもそう気づいてしまうと、すべてが私には理解できたような気になりました。
節子の墓標は私なのだ、と。
そして、「人は永遠に供養される」という一条さんのメッセージが、すんなりと受け入れられました。

人は、愛する人に自らを託し、その人を墓標にしていく。
あるいはまた、愛する人に自らを墓標として、開いていく。
供養することが、実は供養されることでもある。
節子の友人たちが私に声をかけてくるのは、私が墓標だからなのです。
私の心身の中に、時々、節子を感ずるのは、私が墓標だからなのです。
そして、誰かがまた私の墓標になって、節子を含めた私を引き継いでくれる。

これが、私が「永遠葬」を読み終わった時に浮かんできたことです。
私には大きな発見です。
そうか、私は節子の墓標なのだと思うと、いろんなことがすんなりとはいってくる。

一条さんのメッセージを読み違えているおそれがないわけではありませんが、私にとっては、強烈な気付きです。
私も、なんだか「葬儀論」を書きたいほどの気分です。

いささか消化不足ですが、一条さんと節子に早くこのことを伝えたくて、書いてしまいました。
もっとも、節子は、やっと気づいたの、と笑っているかもしれません。
一条さんは、どういうでしょうか。
ちょっと心配ですね。

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