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2015/07/07

■節子への挽歌2826:「佐藤さんの大切にしていることはなんですか?」

節子
相変わらず苦境から抜けられずにいます。
苦境の内容が書けないのもまた辛いところです。
私だけの問題ではないからなのですが。

昨日、東大の大学生たちが3人、湯島にやってきました。
最近交流がある大学院生が、いま、いろんな人の生き方をインタビューしている社会調査の一環で、仲間と一緒に来たのです。
2時間以上にわたって、「佐藤さんの目指す良い社会ってなんですか?」とか「佐藤さんの大切にしていることはなんですか?」などと、いろんなことを質問されました。
メインのインタビュアは、中国から留学している女性でした。
彼女の関心事は「家族」なのだそうです。
それも、人生を共にしあう、ゆるやかなセイフティネットのイメージの家族でした。
血縁にはこだわっていないようです。

佐藤さんにとって奥さんはどういう存在でしたか、とも訊かれました。
久しぶりに、「妻は私の生きる意味でした」と答えました。
答えてからふと思いました。
「生きる意味」がいなくなったのに、なぜ今もなお、生きているのか。
すぐにその答えも頭に浮かんできました。
それは、いまもなお、節子は私の中では存在しているからです。

私のこれまでの人生も話しました。
節子との出会いは詳しくは話しませんでしたが、6畳一間から始まった「神田川」生活やそれぞれ両親に反対されて結婚式も挙げなかったことも話しました。
しかし、節子との別れに関しては、話せませんでした。
話せば今でも涙が出ますので。

彼らからは質問されませんでしたが、彼らが帰った後、私の人生は良い人生なのだろうかと思いました。
少し前であれば、誰にも恥じることのない良い人生だと答えられました。
多くの人に支えられて生きているいまの私の人生は、「良く生きてきた証」だと思いたいのですが、最近はその思いが揺らいでいます。
もしかしたら「生き間違えたのではないか」と言う思いがどこかにあるのです。

しかし、仮にもし「生き間違えた」としても、良い人生だったのでしょう。
自分の人生をしっかりと生きてきたのですから。

大学院生たちからの「佐藤さんの大切にしていることはなんですか?」の問いには、「自分の人生をしっかりと生きること」と答えました。
自分の人生なのですから、良いに決まっているはずです。
生き間違えることもまた、自分の「良い人生」なのです。
この苦境に付き合うことこそが、私の人生なのです。
そう思うと、少し覚悟ができます。

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