■節子への挽歌2848:生とは、多くの死の上に成り立っている
節子
この挽歌の番号は、本来は、節子の命日からの日数になっていなければいけないのですが、2か月ほど、なかなか挽歌を書けない時期があり、大きく食い違ってしまっています。
最近、毎日、複数の挽歌を書いているのは、次の節子の命日までに、番号を一致させたいと思っているからです。
いま1か月分くらい、つまり30以上、番号がずれているのです。
そんなわけで、今日はもうひとつ書くことにしました。
夕方、広島のOさんから電話がありました。
Oさんは、この挽歌を読んでいるので、私の状況は、もしかしたら私よりもわかっているかもしれません。
実は書いている当人が意外と気づいていない行間の真実はたぶん読者には伝わるでしょう。
伝わるというよりも、私自身の混乱に陥っている様や、伝えたいのにはっきりは言えない未練がましさなども、なんとなく伝わるものでしょう。
先日会った人からは、最近なにかよくわからないことを書いていますね、と言われましたが、もしかしたら読者には、その言外のことも伝わっているのかもしれません。
人は、決して嘘はつけないのです。
Oさんからの電話はちょうど畑にまた出かけようと思っていた矢先でした。
どうもOさんにはお見通しのようです。
無理をしないようにと、いろいろとアドバイスを受けました。
夕方の6時を回っていましたが、1時間ほど草刈りなどをしてきました。
Oさんから電話があったせいか大いにはかどりました。
昨日は蟻や蜂に迷惑をかけましたが、今日は少し良いことをしました。
アブラゼミが野草に絡まれて動けなくなっていました。
もしかしたら、時間を間違えて孵化してきたのでしょうか、羽根が少しおかしくうまく飛べないようでした。
このままだと明らかに蟻の餌食になります。
さてどうしたものか。
蟻の巣のないところにある、樹の茂みに移動させて、しがみつかせました。
大丈夫とは保証できませんが、すぐに蟻の餌食になることはないでしょう。
しかし、考えてみると、これは蟻にとっては迷惑以外のなにものでもないでしょう。
やはり畑作業はさまざまな生命に直結しており、多様な考えに気づかせてくれます。
だから元気が出るのかもしれません。
今日はたくさんのバッタの子どもたちにも出会えました。
ところで、昨日、蜂に刺されたところですか、痛みはもうありませんが、今日になって、その周辺がかゆくて仕方がありません。
まあそのくらいの罰は受けなければいけませんが、痛みも辛いですが、かゆみはどうしようもありません。
夜になって、ますますかゆくなってきました。
その上、熱まで持ってきています。
今夜は眠れるでしょうか。
実は今朝、畑に行った時に、蜂の巣を樹から切り落としてきたのです。
その呪いが、いまごろになって効いてきたのかもしれません。
畑作業は、まさに殺生行なのです。
生とは、多くの死の上に成り立っていることがよくわかります。
個体の生死など、瑣末の話なのかもしれません。
挽歌らしからぬ記事になってしまいました。
忘れていた百日草は持ち帰り、節子に供えました。
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