■節子への挽歌2823:長いお休みでした
節子
結局、6月の後半は挽歌を書けませんでした。
こんなに長く挽歌を書かなかったのははじめてです。
書けなかった理由は、私に精神的な余裕がなかったからです。
あまりに長く書いていないので、またまた電話までもらってしまいましたが、私自身の体調はそれなりに元気です。
この間、節子を放っておいたわけではありません。
メロンやサクランボや節子の好きなお菓子など、いろんなもので仏壇はにぎわっていましたし、供花もカサブランカや胡蝶蘭などが欠かさずにおかれています。
節子が始めた家庭農園から収穫してきた新鮮な野菜もお供えしていました。
私の般若心経も、簡略版が多かったですが、毎朝、唱えています。
こういう時であればこそ、ゆっくりとお経を唱え、自らと対峙しなければいけないのですが、余裕がなくなるとそれもむずかしくなるものです。
まわりでもいろんなことがありました。
辛い時には、なぜか辛いことが重なり、加えて辛い話が持ち込まれます。
元気であれば、心を込めて聴けるのですが、余裕がないと耳をふさぎたくなることもあります。
他者の嘆きや救いに耳をふさぐことは、もしかしたら自らの嘆きや救いの求めにも耳をふさいでいるのではないかということに気づいたのは、つい最近です。
挽歌は書けませんでしたが、実にいろんなことを考えました。
世界はかなり見えていたつもりでしたが、自分は全く見えていなかったことを思い知らされました。
自らの「愚かさ」はそれなりにわかっていたはずですが、思っていた以上の愚かさでした。
自分も見えない者に、世界が見えるはずはありません。
それで、時評も書けずにいましたが、愚かな者の考えもまた、意味があると思い直して、時評も再開しました。
挽歌もなんとか再開します。
心配してご連絡くださった方々にお詫びします。
節子からの連絡はありませんが。
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