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2015/08/06

■節子への挽歌2882:未だ打たざる太鼓の音の美しさ

未だ打たざる太鼓の音の美しさ。
これはインドの詩人、カビールの詩に出てくる言葉だそうです。
柳宗悦の「美の法門」に紹介されています。
原典を探したくて、ネットで少し探しましたが、いつものようにやはり見つかりません。
でもまあ、原典に当たることもないでしょう。
この言葉の素晴らしさは、この一言で十分です。

私も、こうした経験はこれまで何回かしています。
太鼓ではなく、鐘のことが多いのですが。
見ただけで、美しい音が聞こえてくる。
それがあまりに美しい時には、打ってほしくないこともあります。
打たれた途端に、その美しさが消えてしまうこともあるからです。
音は聞かずに、観るのがいい。
観音像が好きな私は、いつも観音像からも音が聞こえてくるのです。

ところで、カビールのこの言葉で思い出したのは、昔、節子と行った常宮神社で見た新羅の鐘です。
常宮神社は、敦賀半島にある小さな神社です。
昔は気比神社の奥社だったそうですが、いまはほとんど訪ねる人もいないような場所にあります。
しかし、その鐘は日本で一番古い新羅の鐘で、国宝だったと思います。
神社の神職の方が、撞いてくれました。
とてもいい音色だったのを覚えています。

たしか2004年の秋でした。
節子はすでに発病していましたが、手術後、少し体調が回復しだし、滋賀の生家の法事に行った時に、姉夫婦が連れて行ってくれたのです。
あの鐘は、見た途端に音色が伝わってきました。
そして神職の方が撞いてくれた時には、その音色がそのまま伝わってきたのです。
あの頃は、まだ、私たちは節子が回復すると固く信じていました。
だから音色も美しかったのかもしれません。
音色は、心で受けるものですから。
たぶん私たちは、同じ音色を聞いたはずです。

常宮神社にはもう行くこともないでしょう。
たしかきれいな海も見えたような気がしますが、思い出す風景は現実のものでしょうか。
新羅の鐘の音も、もしかしたら、もう聞こえないかもしれません。

音が観える。
風景が聞こえる。
その時は、心身が生き生きしているのでしょう。
そうでない時には、音も観えなければ、風景の音もない。

時々、彼岸が観えたり聞こえたりします。
これも一種の脳の成長なのかもしれません。
こうしたことを、脳の老化とか認知症とかいう人がいますが、私はすべてを肯定的に受け止めてます。

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