■節子への挽歌2916:死復活
節子
季節は一転して、秋のようになってしまいました。
肌寒さを感ずるほどです。
昨日書いた、禅の公案「道吾一家弔慰」のことはいつかまた書くとして、それにつなげて田辺元が書いている「死復活」の話は、私には最近少し実感できるようになっています。
「死復活」というのは、例えば教えを請うていた師が、その死後、自らの中で生きていることを弟子が実感できるというようなことです。
田辺元は、「死復活というのは死者その人に直接起る客観的事件ではなく、愛に依って結ばれその死者によってはたらかれることを、自己において信証するところの生者に対して、間接的に自覚せられる交互媒介事態だ」と書いていますが、要は自分の中で死者が生きていることを実感するということでしょう。
気づいてみたら、死者(他者)の意思によって動いているという体験はだれにもあるでしょう。
人は、自らの意思で動いているように見えて、必ずしもそうではありません。
死者が乗り移ったような言動を、他者に感じたことがある人もいるでしょうが、自らもまたそういう言動をしていることに気づくこともあるでしょう。
交霊現象というと、胡散臭さを感ずる人もいるかと思いますが、こうしたことを自らが実体験していると、十分にありうる話だと思えてきます。
私は、「生まれ変わり」の考えにも違和感はありません。
死復活は、師弟関係においてのみ起こるわけではありません。
これまでも何回か書いてきましたが、愛する人の死によって失われるのは、その人と創り上げてきた世界です。
日々育ってきた、その世界が、突然に終わってしまう。
ですから遺された者は、それまで歩いていた道が行き止まりにぶつかったり、あるいは断崖絶壁の淵に立たされたりするような気分になる。
愛する人の喪失は、個人の死というよりも、世界の終焉になる。
遺された者が体験するのは、一緒に生きていた「私たちの世界」の喪失なのです。
それに気づくまでには、時間がかかりますが、それに気づいた時に「死復活」が起こるのかもしれません。
客観的事実としてではなく、残された者の内的世界において、死者が蘇ってくる。
そして、動きを止めていた時間が少しずつ動き出す。
そして、生者のなかに死者が生き返り、歴史がつながっていくわけです。
こうしたことは個人の世界で起こるわけですが、その集積が人類の歴史をつなげてきたのでしょう。
それが、仏教思想の「大きないのち」「生かされるいのち」なのかもしれません。
秋は彼岸をすぐ近くに感ずる季節です。
この数年、秋が短くなってきていますが、今年の秋はどうでしょうか。
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