■節子への挽歌2904:日常の喜怒哀楽が戻ってこない
節子
最近つくづく自分の生活が世間から大きくずれているのを感じます。
どこがどう違うのか、うまく言葉にはできませんが、明らかにずれています。
みんなのように「日常」がないと言ってもいいかもしれません。
いわゆる「日常の喜怒哀楽」というべきでしょうか。
まわりの友人知人たちの日常を見て、そう感ずるのです。
伴侶を亡くした人はたくさんいます。
みんなそうなのでしょうか。
私だけが特殊なのでしょうか。
伴侶を亡くして、日常を失っても、それを回復できた人も少なくないでしょう。
私の場合も、もしかしたら、外部からはそう見えるかもしれません。
節子がいなくなってから、知り合ったある方は、ある時話をしていて、私が妻を見送ったことを初めて知って驚いていました。
外からは見えないのかもしれません。
外からは見えないかもしれませんが、心身の中にいつもぽっかりと空いた暗闇がある。
それがどうしても、日常の回復を邪魔します。
どこかいじけた喜怒哀楽しか持てないのです。
性格がどんどんくらくなっていく。
困ったものです。
組織の中で仕事をしていたら、違っていたのかもしれません。
夫婦一緒に活動していた時間があまりにも多すぎたことも、影響しているかもしれません。
ともかく、日常が瓦解した。
そして、8年が経とうとしているのに、瓦解したまま、日常の肝心の何かが戻ってこない。
日常がなくなると、いうまでもなく未来が始まりません。
未来の出発点になる現在の日常がないからです。
お盆が終わって、自宅の精霊棚を壊し、いつもの仏壇に位牌を戻しました。
その直後に、なぜかこんな思いに襲われてしまいました。
今夜は、奇妙なほどにさびしいです。
やはりお盆には、彼岸から節子が戻ってきていたのかもしれません。
友人たちの夏休みは、みんなとても幸せそうでした。
どこかで羨んでいる自分がいます。
私の夏休みが幸せだったころ、そんな気持ちで私を見ていた友人もいたのでしょう。
そんなことなど微塵も考えていなかった自分が、いまは少し恥ずかしい気がします。
今年のお盆は、いろんな気付きを得て、世界が少し広がったお盆でした。
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