■住民(国民)の責任-被害者になる前に加害者になることをおそれたい
福島原発事故を体験した後も、地元の原発を再稼働させることを許した川内市の7万人の住民にはいささかの驚きを感じます。
住民としての責任を放棄したとしか思えません。
もっとも住民の過半数は、再稼働に反対だったとも聞いていますが、小さな自治体レベルでさえ、住民の意見は大切にされないことにも、大きな驚きを感じます。
国民主権や自治は、今やどこにも見当たりません。
福島原発が事故を起こした時、私は最初、立地周辺の住民には一切の同情を持てませんでした。
自分たちで受け入れておきながら、そして、その利益を享受しておきながら、事故が起きたから補償しろというのは私の信条に反するからです。
しかし、少し枠を広げれば、原発を受け入れたのは、立地自治体だけではなく、福島県、さらには日本全体ですから、私もその仲間の一人でしかありません。
私自身が、福島原発事故の被害者であると同時に、加害者でもあるわけです。
その認識がない限り、原発周辺に住む人たちのことは責められないと気づきました。
福島原発で、少なくとも日本人は、もう原発をなくす方向に行くと思っていました。
それは、「体験した者の責任」として、当然のことだからです。
しかし、そうはなりませんでした。
そして事故から5年もたたないのに、原発がまた動き出すことになったのです。
おそらく住民の多くは、不安を持っているでしょう。
周辺の住民のみならず、多くの人が再稼働反対で全国からも集まりました。
テレビなどでも、多くのキャスターが、婉曲的にではありますが、異を唱えています。
にもかかわらず、川内原発は動き出します。
私が一番気になるのは、被害者になるかもしれないということではありません。
また加害者に戻ることです。
日本における原発再稼働は、私たち日本に住むものが、世界に向けての、あるいは未来に向けての、放射線被曝の加害者になるということだろうと思います。
福島事故を体験しながら、私たちは、また原発安全神話に依存して、目先の利益だけを見た生き方に戻ってしまったのです。
それがとても残念です。
川内市の市長はもちろんですが、私は川内市の住民の責任を問いたい気がします。
彼らは、加害者になることを選んだのですから。
しかし、加害者であることを選んだのは、川内市の住民だけではありません。
私たち、私も含めて、日本に住む者みんなが、加害者(つまり犯罪者です)になる道を選んだということです。
自らの責任もまた、問わなければいけません。
これと同じことが、安保法制の動きにも感じられます。
私たちがいま、真剣に考えるべきことは、被害者の目線だけ考えるのではなく、加害者の目線も持って、考えることです。
そういう視点を持てば、日本のこの70年も、平和だったとは決して言えないのです。
いまもなお、見えない戦場が、この日本には遍在しています。
これに関しては、項を改めて、書くようにします。
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