« ■節子への挽歌2905:色即是空の無常観 | トップページ | ■ちょっとハードなカフェサロン「マトリックス人間学」のお誘い »

2015/08/17

■節子への挽歌2906:死者にとってのお墓

節子
佐久間さんが「唯葬論」という本を送ってきてくれています。
お盆の時期に読めるようにしてくれたのだと思いますが、あえて読まずにいます。
この本は、佐久間さんがかなり心を込めて書いたものでしょうから、私の方も少し気を入れて読もうと思っています。
その本の帯に、佐久間さんは「問われるべきは「死」ではなく「葬」である!」と書いています。
その言葉もかなり気になっています。

このお盆は、それなりに「死と葬」について考えました。
前の挽歌2905も、そのひとつなのですが、その延長で、少し書いてみようと思います。
佐久間さんの本を読んでしまうと、たぶん大きく影響を受けてしまいそうなので、あえて読む前に書いておくことにしました。
ちょっと長いですが、お許しください。

今回、お墓にはお盆の前後に行っていますが、私の考えでは、わが家の位牌にこそ、節子は常住していると思っています。
では、なぜ別のところに墓が必要になるのか。
私は、以前は不要だと思っていました。
節子もそうでした。
愛する人の遺骨がもしあるのであれば、できるだけ身近な、自らの生活の場に置けばいい。
お墓をつくるのであれば、自宅に作るのが一番いいのではないか。
なぜ、いつもの生活の場から離れた墓地に、転居させなければいけないのか。
土葬時代はともかく、最近のように火葬が広がった状況にあっては、墓地は不要ではないかと思っていたのです。
いまも、その考えが大きく変わっているわけではありません。
だから、自分の頭の中では、お墓の存在がうまく整理されていません。
ただ、私の場合、亡くなった両親とは同居していません。
節子と両親は同じ墓にいますが、位牌は、別のところにあります。
両親の位牌は、兄のところにあります。

壊されていく隣のTさんの家を見ながら、お墓は、死者のものなのだと改めて思いました。
この家がなくなると、地域の人たちはそのうちみんなTさんのことを忘れてしまうでしょう。
この地域からは、Tさんはいなくなる。
この家があればこそ、いままでTさんは、亡くなった後もこの地域に住んでいた。
死者にも「家」が必要なのです。

お墓に行くと、なぜか死者たちの姿が自然と浮かんできます。
そして、自然と声をかけている自分に気づきます。
お墓は、姿を失ってしまった死者たちの存在の証であり、現世への顔なのです。
位牌とは、また違った意味がある。

墓は死者のもの、位牌は生者のものかもしれません。
死者を偲んで生者が墓をつくるのではない。
死者がみずから生き続けるために、それも遺していくものたちのために生き続けるために、時間を超えて現世に戻ってきて、生者に墓をつくらせる。
死者は、現世にいる時に、一度、彼岸に行っているのです。
死を意識する段階になって、節子が墓に入りたいと言い出した理由が少しわかったような気がしました。
あの時、節子はたぶん、彼岸に入り、現世的に言えば未来の自分として現世に戻ってきていたのです。

わが家がいつまでもあるとは限らない。
死者にとっての唯一の拠りどころが墓なのかもしれません。
決して千の風ではない。
千の風は、生者のためのものです。

墓は、すでに彼岸のもの。
だから墓地は、他の場所とは違った世界を感じさせるのです。
墓は、個々の生者のためにあるのではなく、すべての死者の彼岸のためにある。
たとえわが家の墓であろうと、死者すべてのためにある。
墓石の下は、時空間を超えた彼岸なのです。
そして同時に、それは死者が生者とつながるための窓なのです。

書いていて、どうもうまく心身にあるイメージが言語化できない。
中途半端ではありますが、まあ今日の時点での思いとして残しておきましょう。
佐久間さんの本を読んだら、もう少し整理できるかもしれません。

明日から、「唯葬論」を読みだす予定です。

|

« ■節子への挽歌2905:色即是空の無常観 | トップページ | ■ちょっとハードなカフェサロン「マトリックス人間学」のお誘い »

妻への挽歌15」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌2906:死者にとってのお墓:

« ■節子への挽歌2905:色即是空の無常観 | トップページ | ■ちょっとハードなカフェサロン「マトリックス人間学」のお誘い »