■節子への挽歌2915:来世での選択
先日、ある活動の相談で40~50代の女性たちが、湯島に相談に来ました。
その雑談の中で、おひとりの方が、私は来世も同じ伴侶を選ぼうと思っているのに、そう思っていないのはおかしいわよね、というようなことを発言されました。
私も含めて、みんなが知っている、ある人のことが話題になった時です。
同席していたおひとりも、同じ伴侶を選ぼうとも思っていないと発言しましたが、最初の発言者は、来世もまた同じ伴侶を選ぶことが当然のことだと確信している様子でした。
そのやりとりを聞いていて、同じ伴侶を選ぼうと思っている人が来世を信ずるのかもしれないと思いました。
つまり、そういう人にとっては、来世は現世への未練の延長なのかもしれません。
私自身も、来世を確信していると同時に、そこでもまた同じ伴侶、つまり節子を選ぶとなんとなく思っています。
しかし、考えてみると、それでは「来世」とは言えないかもしれません。
現世への未練が生み出す幻想でしかない。
死者は存在するという考えがあればこそ、葬儀が始まり、宗教が始まり、人間の心の平安が可能になっていく。
これは、先ほど読んだ一条さんの「唯葬論」で語られていることです。
たしかに、その通りで、私の体験から考えても、彼岸があって、そこに節子がいるというイメージが、大きな心の支えになりました。
そこから、ある意味、当然の帰結として、また同じ伴侶を選ぶということになります。
しかし、仮に現世での夫婦関係が「不幸なもの」であるとしたら、その不幸を来世でも繰り返したくはないでしょう。
来世では違う人を選びたいという人がいてもおかしくありません。
だからといって、来世では別の人を伴侶にしたいという人の現世の夫婦生活が、不幸だというわけでもないでしょう。
逆は必ずしも真ではないからです。
それに、人の関係性ほど、はかなく不安定なものはない。
思考のベクトルを逆転させましょう。
来世でももし同じ伴侶を得るのであれば、現世での夫婦関係を見直す動機になります。
その関係性を善いものにしておくことが大切です。
また、もし来世で伴侶にしたくないのであれば、来世まで待つことはない。
現世で解消すればいい。
しかし、すでに様々なつながりの中で、いまさら解消はできない場合、どうするか。
来世では相手から解放されるという希望の中で、現在の関係を少しでもより善いものにするよう努力していくのが次善の策かもしれません。
いずれにしろ、現世の関係性を善いものにしようという力が生まれてくる。
来世を考えるということは、要するに現世を考えるということです。
来世で同じ伴侶を選ぶかどうかは、所詮は同じ決断につながるのです。
関係を解消することも、ある意味では、「関係を善くすること」になるでしょう。
しかし、私のように、すでに伴侶が彼岸に行ってしまい、現世の関係性を変えられない場合はどうすればいいのでしょうか。
そこで出てくる考えが、いやまだ節子は彼岸に行っていないのだという発想です。
いささか難しい議論になりそうですが、禅の公案の一つ、「道吾一家弔慰」の話が考えるヒントを与えてくれます。
この公案も一条さんの「唯葬論」で知った話です。
内容はまた改めて書くことにしますが、どうも現世と来世、彼岸と此岸と二元的に考えるところに、もしかしたら間違いがあるのかもしれません。
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