■節子への挽歌2910:伴侶の役割はお茶のみ相手
節子
湯島に来ています。
午前中、来客があったので、珈琲豆を挽いて珈琲を淹れました。
朝も飲んできましたが、続けて飲んだのですが美味しかったです。
お客さんもおいしいと言ってくれました。そのせいか、話が弾んでしまい、2時間があっという間に過ぎたばかりでなく、言わなくてもいいことをいろいろと話してしまいました。
湯島には初めての人でしたが、また来てくれるでしょう。
朝、書いた挽歌を読み直しました。
お茶も珈琲も、一人で飲むから、あんまり飲めないのかもしれない、と思いました。
お茶を共にする人がいないのは、人生をさびしくするものです。
あるいは、お茶を出す人がいないことも人生をさびしくするのかもしれません。
娘たちはいますが、やはり親子はなんとなく違う気がします。
節子がいたころ、わが家には「お茶の時間」がありました。
特に休日は、3時頃になると、節子がみんなにお茶をいれてくれました。
娘たちも集まって、みんなでひと時を過ごしました。
この文化は、いつの頃かなくなってしまいました。
いまも、私は時々、お茶でも飲むかと声をかけますが、あんまり一緒に飲むことはありません。
娘から、お茶を入れたよという声がかかることもありますが、以前とはやはり雰囲気が違います。
子どもにとっては、父親と一緒にお茶を飲むのは、楽しいことでもないでしょう。
私自身のことを思い出せば、よくわかります。
両親は喜んでくれましたが、私はあんまりうれしくはありませんでした。
だからきっと娘たちは、私のためにお茶を誘ってくれているのでしょう。
伴侶の最大の役割は、茶飲み相手を果たすことかもしれません。
最近、何やらそんな気がします。
伴侶とであれば、無言のまま、お茶を飲んでいても、自然です。
しかし、親子や他人では、無言だと何か変な感じでしょう。
無理に話を探し出しかねません。
伴侶であれば、話がなくても、ただただ自然に過ごせます。
私たちは、よく話す夫婦でしたが、話さないでお茶を飲むこともできました。
そんな至福の時間が、失われたのが、残念です。
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