« ■節子への挽歌2883:季節外れのさつまいも | トップページ | ■節子への挽歌2884:昨日はちび太の命日でした »

2015/08/07

■主語はなんなのか

このブログでは以前も書きましたが、メッセージを目的にした話や文章で一番大切なのは主語だと思います。
主語が曖昧なために、まったく正反対に受け取られることがあります。
なにを主語にするかで、その人の世界観や社会認識の構造がわかります。
それを踏まえないと、論者のメッセージは正確には理解できません。
今朝の朝日新聞に、佐伯啓思さんが、「押し付けられた米国的歴史観 ポツダム宣言の呪縛」という論考を寄稿しています。
それを見て、主語の大切さを改めて思いました。
主語を曖昧にして語るのを得意にしている人が多いですが、主語をどうとらえるかで論考の方向性は決まってきます。
主語のない論考は、私には意味がありません。

ポツダム宣言が要求していたのは、「軍隊の無条件降伏」であって「日本の無条件降伏」ではない、と佐伯さんは書いています。
このことは、最近いろんな人がなぜか改めて言い出していることです。
ここにも、軍隊と政府と国民とをどう捉えるかとことを考える「主語の問題」がありますが、それはそれとして、佐伯さんはこう話をまとめます。

ポツダム宣言に示されたアメリカ的歴史観にまで「無条件降伏」する必要はない。にもかかわらず、戦後日本は、この歴史観を受け入れ、戦前の日本を道義的に誤ったファシズム国家と見なしたのである。そうだとすれば、われわれは、今日のイラク戦争にも、対テロ戦争にも反対する根拠はなくなる。「自由と民主主義」を守るために、アメリカと協調するほかない。それがいやなら、もう一度、ポツダム宣言を読み直し、あの「戦後のはじまり」に何があったのか、を再考するほかあるまい。さもなければ、70年たって、「右」も「左」もいまだにポツダム宣言に呪縛されたまま、ということになるであろう。

この文章の主語がなかなかわかりません。
実際には、「戦後日本は」と「われわれは」という2つが出てきますが、それが何を意味するかはあいまいです。
そもそも、タイトルの「押し付けられた米国的歴史観」ですが、誰が誰に押し付けたのかが曖昧です。
もちろん、アメリカ政府が日本政府に押し付けたということでしょうが、多くの人は、アメリカの人たちが日本の人たちに押し付けたと考えるかもしれません。
佐伯さんによれば、戦前の日本は「道義的に誤ったファシズム国家」ではないようですが、当時日本国内で書かれたものなどを読むと、当時の国民の中には、そう思っていた人も少なくなかったような気がします。
さらに、こうも考えられます。
敗戦と占領によって、「米国的歴史観」が「日本政府によって押し付けられた歴史観」の呪縛から、日本国民を解放してくれた、と。
つまり、結局は「押し付けられた米国的歴史観」と「押し付けられた日本的歴史観」との話でしかありません。
事の本質は、そんなところにあるわけではない。
よく「押し付け憲法」と言われますが、誰が誰に押し付けたのかをきちんと吟味しなければいけません。
これは、世界の構造をどうとらえるかということにつながってきますが、その出発点は主語を明確にすることです。
佐伯さんの文章の「戦後日本は」は「戦後日本政府は」と書くべきです。
ちょっとした違いに見えますが、ここに問題の本質があるように思います。
ちなみに、もう一つの主語の「われわれは」は主語としては不要です。
それにそもそも論旨がめちゃくちゃですが。

ところで問題を一つ。
安保法制の議論で「自衛権」という言葉が盛んに使われます。
その場合、「自衛権」の主語は当然、「自」だと思いますが、その「自」とは一体、誰のことなのでしょうか。
国家の自衛権とは、一体何なのでしょうか。

|

« ■節子への挽歌2883:季節外れのさつまいも | トップページ | ■節子への挽歌2884:昨日はちび太の命日でした »

平和時評」カテゴリの記事

コメント

 佐藤さん、こんにちは。
 ブログへのコメントは久しぶりですが、よろしくお願いいたします。


 >このブログでは以前も書きましたが、メッセージを目的にした話や文章で一番大切なのは主語だと思います。
 >主語が曖昧なために、まったく正反対に受け取られることがあります。
 >なにを主語にするかで、その人の世界観や社会認識の構造がわかります。
 >それを踏まえないと、論者のメッセージは正確には理解できません。

 言説の中の主語がはっきりしていないために、その所在を探り当てるまでに多くのエネルギーを費やすことがしばしばあります。けれども、私は言説の論拠を尋ねることが相手の真意を推し量りつつ派生的な事柄も排除せずに認識を深めていくための重要な端緒となると考えていますので、可能な限りそこには拘っていきたいと思っています。まぁ、時には当方の話法・話術の未熟さも手伝って、あらぬ方向に展開してしまうこともありますが...。

 >今朝の朝日新聞に、佐伯啓思さんが、「押し付けられた米国的歴史観 ポツダム宣言の呪縛」という論考を寄稿しています。

 私も当該投稿文を読みました。そこで間接的にではありますが、少し論評を試みるならば、(戦後)日本政府が受諾したポツダム宣言には「日本軍の無条件降伏」は固より占領政策の指針までもが含まれています。特に10項がそれにあたりGHQが予ての思惑通りにその遂行の任を担ったと謂えるでしょう。米国的歴史観云々はともかくも受諾した時点で「押し付けられた」と云った物言いは既に意味を成さなくなっていたのです。
 余談ですが、そのことが憲法学者の長谷部恭男氏の脳裡にあったかのかどうかは定かではありません、2年前の朝日新聞紙上で氏は『日本国憲法はアメリカの贈り物である。』(2月14日付朝日朝刊“オピニオン”)と云ったようなことを述べていました。
 佐伯氏の著書は比較的初期のものを2、3点ほど読んでいますが、最近の論考は分析というよりはアジテーションに大分近いものになって来ているのかも知れませんし、それをさらに約めようとすると今日のような論述にならざるを得ないのかも知れません。但し、これ以上一つの寄稿を論って論評するのは詮無きことですから、この辺で止めておきたいと思います。

 >ところで問題を一つ。
 >安保法制の議論で「自衛権」という言葉が盛んに使われます。
 >その場合、「自衛権」の主語は当然、「自」だと思いますが、その「自」とは一体、誰のことなのでしょうか。
 >国家の自衛権とは、一体何なのでしょうか。

 無論、「自」とは「国家」すなわち「国民(=共同体を構成する人々の総体)」と云うことになるのではないでしょうか。
 一般に自衛権は国連加盟国の国家が「急迫不正の(武力による)侵害を排除するために、武力をもって必要な行為を行う国際法上の権利」と定義されていますが、重要なことはこの場合の自衛権が個人の正当防衛権の集積としてではなく、何よりも政権(政府)によって造られる相応の武力の所持を前提にした勝れて作為的・人工的な構造物(権利)であることでしょう。
 ところで、私は同じ人工物ならば武力の増進ではなく、先ずは先進国が諸外国との外交関係の構築・拡大・深化に専心することの方が生存圏拡大の限界が見えて来た地球環境下における生存競争の最適化と云った観点からも結局は双方に見合った損得勘定になるのではないかと想うのですが、なかなかそこに至るフェーズが見えて来ないのは私たちの想像力の欠如なのかそれともコミットメントこそ足りないのか、否、その両方かも知れません。

 また、会いましょう。


投稿: 向阪夏樹 | 2015/08/08 05:57

向阪夏樹さん
お久しぶりです。
CWSコモンズの方にコメントをいただていましたが、システム上、コメントを受けられなくなっていました。ブログのCWSプライベートにまたコメントをもらえるようでうれしいです。

自衛権に関するコメント、ありがとうございます。
「自」とは「国家」すなわち「国民」と云うことになるのではないか、ということですが、そこに大きな問題があると思います。
別項「国家(ステート)から国民(ネーション)へ軸足を移す」で書きましたが、それらは全くと言っていいほど、違う概念だろうと思います。

>重要なことはこの場合の自衛権が個人の正当防衛権の集積としてではなく、何よりも政権(政府)によって造られる相応の武力の所持を前提にした勝れて作為的・人工的な構造物(権利)であることでしょう。

というところは同感です。ここにもう一つの大きな問題があります。

国家は、アソシエーションかコミュニティか、という根本的な捉え方の問題もありますが、いずれにしろ、組織や集団の自衛権は、個人の自衛権とは全く別の概念ではないかと思います。
わかりやすい例で言えば、会社には自衛権はあるでしょうか。
自社がつぶれるからと言って、非常策を講ずることが許されるでしょうか。
自社がつぶれるのを避けるために従業員を解雇することは、自衛権、つまり権利でしょうか。
その時の「自社」には、解雇される個人は含まれているのでしょうか。

今回は、主語について書きましたが、実は全く違う世界について、同じ言葉で語ることの危険性を考える必要があります。
国家の権利という場合、要するにその権利の帰属は誰か個人に行くはずです。
そもそもアソシエーションやコミュニティには、権利などあろうはずがないというのが、私の意見です。
作為的・人工的な構造物を「権利」と同一視することに危惧を感じます。
ではなんと呼んだらいいのか。
いい案が見つかりませんが、要するにそれは制度でしかないように思います。

投稿: 佐藤修 | 2015/08/08 07:37

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/62034568

この記事へのトラックバック一覧です: ■主語はなんなのか:

« ■節子への挽歌2883:季節外れのさつまいも | トップページ | ■節子への挽歌2884:昨日はちび太の命日でした »