■節子への挽歌2881:「むき出しの自分」の危うさ
節子
昨日は若者たちを主役にした集まりをやりましたが、新たにまた2人の若者が参加してきました。
結構、打たれ強い若者で、芯もありそうです。
そういう若者を見ていると、元気が出てきます。
若者はなぜ元気なのか。
たぶん前が見えないからでしょう。
未来を自分でつくれるのです。
私の世代でも、そう思って元気な活動をしている人もいます。
逆に、前が見えればこそ、元気に活動している人もいる。
しかし、こういう話し合いの場をいろいろと試みていると、いろんな気付きがあります。
と同時に、私自身がいかに社会から脱落しているかもよくわかります。
27年前、会社を辞める時に、社会から「離脱」し、社会に「融合」しようと考えていました。
どうもそれはうまくいかず、ただ「脱落」してしまっただけかもしれません。
今ごろになって、私はやはりどこかおかしいのではないかという自覚が高まっています。
それにいささかすねている面もあります。
これは直したいのですが、なかなか直せません。
それでも湯島でサロンをやると、いろんな人が参加してくれています。
感謝しなければいけません。
会社を辞めた時に、いつか小さな喫茶店を開店して、毎日サロンをする生活を実現したいと思っていましたが、それは実現できませんでした。
できれば、それが自然の中の喫茶店だと理想的でしたが、そうした計画を話し合う前に、節子はいなくなったのです。
節子がいなくなってから、それまでオープンサロンに参加してくれていた人たちから、サロン再開の要請を受けていましたが、なぜか節子がいなくなってからのサロンの風景は変わってしまいました。
集まる人もほとんど変わりました。
サロンをしてほしいと言っていたのに、一度も来ない人もいます。
言葉で語る人への信頼感は、大きく損なわれました。
しかし、もしかしたら、再開したサロンのイメージが変わって、来たくなくなったのかもしれません。
それなら仕方がありません。
誰もが気楽にいられて、ほっとできる空間。
それが以前の方針でした。
しかし最近は、どうもポレミックな、つまり論争的な場になってきています。
本当はもっとまったりしたサロンが居心地がいいのでしょうが、そうした場を持続させるのは、結構難しいのです。
どうも独りになってから、私はいささか余裕がなくなっているのかもしれません。
節子の存在が、私の偏った生き方のバランスをわずかばかりとってくれていて、しかしその一方で、私の人間的可笑しさをカバーしてくれていたのかもしれません。
伴侶がいなくなると、人は「むき出しの自分」に戻ってしまうのかもしれません。
困ったものです。
今日も暑くなりそうです。
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