■節子への挽歌2907:不要なモノをすてた後に残るのは祈ること
節子
鈴木さんが今朝早く、サンティアゴ巡礼抜向けて旅立ちました。
昨夕、メールをもらいました。
無断で、ほぼ全文を引用してしまいます。
家を出るまであと12時間になりました。 きょうは雨で涼しかったのでほとんど家にいて荷造りに励みました。 背負ってみるとあまり重く感じません。 けれども歩きは始めたらきっと不要なモノを投げ捨てたくなることでしょう。母が旅の無事を仏壇に向かって祈っていたと妹から伝えられました。
それを聞いて涙があふれました。
わたしはこれまで人のために祈ったことがあるでしょうか…?
これではどちらが「病人」なのかわかりません。
佐藤さんがよくおっしゃる「生き方を変えなければならない」。
わたしもいま強くそう感じています。戻ってからお会いできるときを楽しみにしています。
それでは行ってまいります。
歩きは始めたらきっと不要なモノを投げ捨てたくなることでしょう、と鈴木さんは書いています。
普通の人生でも、同じはずですが、なぜか捨てられません。
巡礼とは、それができることなのでしょう。
すてた後に何が残るか。
たぶん「祈り」ではないかと思います。
鈴木さんは、「これまで人のために祈ったことがあるでしょうか…?」と言っていますが、日々の祈りにただ気づいていないだけです。
心を澄ませば、生きることの多くは「祈ること」だと気づくはずです。
いや「祈り合い」かもしれません。
私は巡礼路を歩いたことはありませんが、長い人生を生きてきて、そう確信しています。
鈴木さんが、元気で最後まで歩き続けられるように、節子とともに、祈りました。
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