■節子への挽歌2917:フェイスブックの世界
節子
フェイスブックをやっていると、「知り合いではないですか?」というメッセージとともに、何人かの顔写真が送られてきます。
そこで、時々、思わぬ人に出会うことがあります。
今朝も、もう15年ほど会っていない人の顔が飛び込んできました。
実に懐かしい顔ですが、フェイスブックを拝見すると、大活躍されているようです。
湯島にも何回か来ている人ですが、当時の志を見事に守っているのがうれしいです。
懐かしくて、「友だちリクエスト」を送りました。
こういう形で、旧知の人に毎月1~2人に出会います。
私自身の活動範囲は、このところ急速に狭くなっていますが、節子が元気だったころは、自分でもきちんと把握できないほどの広がりの中で、生きていました。
いまから思えば、面白いことがあれば、どこにでも出かけていました。
いくら時間があっても足りませんでした。
湯島にも、さまざまな人がやってきていました。
そうした時代は、節子の発病とともに終わりましたが、いまもなお、その恩恵を受けて、こうして旧知と出会えるわけです。
フェイスブックは、現実世界とは違う、もう一つの世界を開いているように思います。
最近、私のフェイスブックを読んで、「いいね」というメッセージを送ってくれた人の中に、死者の名前があったことがあります。
彼のフェイスブックは、彼の死後も消えることなく残っています。
ですから、フェイスブックの世界は、現実世界での死後もまだ、生き続けることができるのです。
私の友だちリストにも、死んだはずの彼の名前もまだ残っています。
これは、いろんな示唆を与えてくれます。
もっとも、フェイスブックが残っているとしても、死者はそこに書き込むことも、友だちのフェイスブックに反応することもできないでしょう。
にもかかわらず死んだはずの彼が私にメッセージを送ってきたのは、実は彼の伴侶が引き継いだからです。
たぶんそうだろうなと思っていたら、その人が彼のフェイスブックを引き継ぐことにしたという書き込みがありました。
フェイスブックでは、そんなこともできるわけです。
インターネットは、虚空蔵のような無限の世界につながっていくとともに、華厳経に出てくるインドラの網(インドラネット)の一つの姿を感じるということは、これまでも書いてきました。
しかし、最近は、フェイスブックの世界そのものが、現実世界を飲み込んでいくのではないかという気さえしてきています。
まさに、映画「マトリックス」の世界です。
しかし、ある意味では、そこに「彼岸」が生まれるかもしれません。
そうなれば、彼岸と此岸はつながります。
時空間も越えられますし、生は死を乗り越えます。
まあそうなるのは数百年先でしょうが、もしかしたら数百年先の私が、いまの私と交流できるようになるかもしれません。
今日は雨。
灰色の空を見ながら、彼岸を思いやっています。
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