■節子への挽歌2908:「すべての人間は、死者とともに生きている」
■2908:「すべての人間は、死者とともに生きている」(2015年8月18日)
節子
一条真也さんの「唯葬論」を読み出しました。
その始まりの言葉が、心に響きました。
「すべての人間は、死者とともに生きている」
もし、前にこの本を開いて、この文章を目にしていたら、そのまま読みだしていたかもしれません。
最近の私の心境に、あまりに重なっていますから。
しかし、この文章に今日、出会ったのは、そして今日からこの本を読みだしたのも、意味のあることでしょう。
一気に読みたい気分もありますが、今回は少しゆっくりと読むことに決めています。
ところで、「すべての人間は、死者とともに生きている」です。
8月に入ると毎年、戦死者の思い出がマスコミに取り上げられますが、最近は、戦死者だけではありません。
たぶん東日本大震災以降だと思いますが、死者が語られることが非常に増えています。
御巣鷹山での日航機墜落事件もそうです。
ともかく私たちは、死者の日常的な暮らしへの思い出を通して、過去の事件が生々しく思い出されるのです。
そればかりではなく、その事件と自らの人生がつながりやすいのです。
「すべての人間は、死者とともに生きている」ということが、とてもよくわかります。
死者の思い出とは、実は生者の思い出です。
「死者とともに生きている」ということは、いまなお、死者は生きているということでもあります。
生きている死者が、生きている生者たちをつなげている、と言ってもいいかもしれません。
しかし、最近、ちょっと気になることがあります。
その「死者の思い出」が、少し「生者のための思い出」になりすぎていないだろうか、ということです。
それも、死者を愛する人ではなく、死者とは交流もなかった第三者が、死者を道具にして、物語を仕立てているのを感ずることがあります。
過剰に死者が語られている。
最近、そんな気がしてなりません。
死者とともに生きているのであれば、改めて余計な物語はいりません。
死者とともに生きる日常が、なくなってきているのかもしれません。
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